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ホーエンツォレルン家と歴史の真実


愛知学院大学法務支援センター教授 高橋 洋
 ドイツに特別の関心をお持ちの方でなくても、ホーエンツォレルンという名前にはご記憶があるのではないでしょうか。高校の世界史で出てくる、プロイセンの王家です。18世紀にはフリードリヒ大王などという、卓越した国王が出て国力を高め、1871年にはオーストリア以外のドイツを統一してドイツ帝国を再建し、その当主であるヴィルヘルム1世がドイツ皇帝を兼ねることになりました。しかし、その後の第一次世界大戦末期には革命によって帝制が崩壊し、ドイツ皇帝はオランダに亡命、その後いわゆるヴァイマル共和国ができました。その時にホーエンツォレルン家の財産がどうなったかというと、ヴァイマル共和国下のプロイセン邦政府とホーエンツォレルン家との交渉によって、1926年に、その財産の分割協定が結ばれました。その結果、かなりの資産が同家の私有財産として残されることになりました。
 しかし、問題はここからです。ドイツはその後第二次世界大戦に敗れ連合国の占領統治を受けます。そして特にソ連(当時)占領地区(その後の東ドイツ)での「土地改革」によって、多くのホーエンツォレルン家の土地が収用されました。そして1990年にドイツは再統一されますが、それを機に1945~49年に行われたソ連軍政部による収用をどう処理すべきかが問題となりました。ドイツ連邦議会は、この収用を覆すことはないとの決定を行いましたが、それに対する金銭的な補償を認めました。しかし同時に、議会は、この補償請求権を、ナチズムや共産主義に「顕著な援助」を行った者を排除したのです。そこで、ホーエンツォレルン家が、『多数の貴重品、美術品に対する補償や、ツェツィーリエンホーフ宮殿における居住権、そしてとりわけ新設されることになっているホーエンツォレルン博物館におけるプロイセン・ドイツの過去の解釈に際しての関与権』を請求したとき、同家の人々が、ナチスの台頭と権力奪取に際していかなる役割を果たしたか、が問われることになったのです。約100年も前の王政の崩壊とその資産処理、そして1930年代における旧王家のナチズムとの関わりが、21世紀になってクローズ・アップされることになりました。
 さらに問題は続きます。ことは1930年代の話ですから、これは歴史の領域に属すると言っていいでしょう。歴史学者が発言し、専門的な鑑定書を提出したのは当然ですし、法学者も請求権が成立するかどうかという法的問題に対して意見を述べるのも当然です。また、この問題は政治的な問題ともなり、政治家や政治学者、そしてメディアを賑わすことにもなりました。このような状況下で、ホーエンツォレルン家の当主、ゲオルク・フリードリッヒ・フォン・プロイセンは、自分に対して不快な鑑定書を書いた者や記事を掲載したメディアに対して、訴訟を起こすという、いわば脅しをかけたのです。いわゆるスラップ訴訟(恫喝訴訟)で、自分たちに不利な言説を押し止めようとしたわけです。この種の訴訟は日本でも時々見られますが、ナチスの台頭に旧プロイセン王家=ドイツ皇帝家がどのような役割を果たし、歴史的な責任を負わなければならないのかどうか、という問題の究明を妨げることにならなければよいのですが。それにしても、ホーエンツォレルン家は、寝た子を起こしてしまったようです。
(『 』内は、Der Staat誌2020年第2号の、シュトルベルク=リリンガー教授による巻頭言からのもの。)
(AGULS第56号(2022/3/25)掲載 )