グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



TOP >  ブログ >  撒骨 (散骨) に関する議論の前提 [撒骨・その3]

撒骨 (散骨) に関する議論の前提 [撒骨・その3]


                                         愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保

 撒骨 (散骨) に関するブログの第3回として、適切な議論に必要不可欠な前提事項を指摘する。肯定論でも否定論でも、誤った前提に基づく不適切な議論を蔓延させてはならない。

[1] 虚偽・誤謬・妄説を排斥しなければならない
 詳細は平成29年7月13日および同年8月9日のブログに記載したので、反復しない。ここでは、結論だけを示す。
  ・官庁による撒骨許容は存在しない。
  ・墓埋法は撒骨許容の根拠にならない。
  ・遺灰も刑法上の遺骨に該当する。
  ・葬送は個人の自由や権利だけに留まらず社会的要請を含む事柄である。
 以上の命題を前提としなければ、撒骨の適否を適切に検討することはできない。
 「法務省が適法だと言った」と聞けば、適法性に疑念の余地がないと信じても不思議ではない。それは、法務省の名義が冒用であることを知らないまま、官庁の権威に盲従するものでしかない。法学部教授・法学博士・弁護士といった肩書を持つ人が法について語れば、少なからざる人々がそれを正しい法解釈だと信じると推測できる。それは、その言説が判例・通説から懸け離れた異常なものであることを知らないまま、専門家の肩書を盲信するものでしかない。
 多くの人々が、虚偽を真実だと誤信し、誤謬に気付かず、妄説を信奉している。このような状況で大多数の人々が撒骨を適法な葬法だと考えるに至っても、その判断は法解釈の前提たるべき社会通念の名に値しない。むしろ、排斥されるべき迷妄である。
 撒骨を適法だと評する場合でも違法だと評する場合でも、検討に先立って虚偽・誤謬・妄説を完全に排斥することが、まず必要である。正確な情報・理解に基づく言説が少数派に留まると認められるので、本駄文で指摘する次第である。

[2] 言葉の印象に幻惑されてはならない
 今日の日本では、「自然」という言葉に「良いこと」という印象が付着していると認められる。その結果、「自然○○」と表示すると、その「○○」が本当に良いことか否かを検討しないまま、「自然○○」は当然に良いことだと思い込む人がいる。
 言葉の印象に幻惑されて検討の必要性を失念することは、珍しくない。「○○権」も、「権」「権利」という言葉の印象から、「正当なこと」という短絡的結論に至ることがある。「軍事同盟」に「集団的自衛権」という偽名を付けると、軍事同盟という政治的行為の当否に関する検討の必要性を失念して、直ちに当然に正当なことだと思い込む人がいる。
 「変える」「新しい」は良いことに決まっているという迷信も浸透している。「改革」のラベルを獲得した人物は直ちに無条件に正義の味方として扱われ、反対者には悪のラベルが貼られる。かつて、「抵抗勢力」というラベルが猛威を振るった。もっと昔には、「国賊」「非国民」「アカ」といったラベルによる凄惨な弾圧があった。今後は、「テロリスト」「テロ支援者」のラベルが同様の役割を演じるかもしれない。或る人々を「テロリスト」と呼ぶか「レジスタンス」と呼ぶか、或る行動を「挑発」「侵略」と呼ぶか「牽制」「防衛」と呼ぶか、という用語選択が「誰の味方になって誰と敵対するか」という政治的態度表明であることに気付いていない人は、珍しくない。
 言葉の印象は怖い。往々にして人々を思考停止に陥れる。「自然葬」「新たな葬法」「葬送の自由」といった名称から生じる好印象は、「法務省公式見解」の捏造による適法評価偽装と相俟って、実に有効な撒骨普及促進機能を果たした。昔の「聖戦」「神国不敗」と類似するものを感じる。
 だから、強調しなければならない。問題は名称ではなく内容である。人骨を誰かの所有地や公共空間に撒布して追慕の客体を失わせることが良いことか否か、どちらの結論を採用する場合でも、自分の頭で考えるべきである。

 結論の当否とは無関係に、権威やラベルによる反対論封殺があってはならない。架空の権威や虚構のラベルは抹消されなければならない。その上で、真摯な検討を尽くさなければならない。検討の材料や方法については、後日に述べる。
(平29・8・22)