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法と裁判について(第2回)


                                    愛知学院大学法務支援センター教授 梅田 豊

前回は「デスノート」を例にして、犯罪のない、犯罪者の居ない世界を実現するという一見「ご尤も」と思える「正義」の実現には、実は難しい問題があるということを指摘しました。ここで話を進める前に1つ確認しておきたいことがあります。
一般に、犯罪は悪いこと(=悪)、従って犯罪者とは悪いことをした(する)人(=悪人)というイメージがあるかと思います。映画やドラマなどでも、特にいわゆる勧善懲悪型の物語の場合、善人と悪人(犯罪者)とは最初からはっきり区別されていることが多いですね。しかも、悪人を演じる役者さんはいかにも凶悪な顔とふてぶてしい態度で「これぞ正に悪人!」という演技をします。主人公である善人(正義の味方)が悪人にやっつけられる場面では、非常に憤りを感じて、「なんて酷い奴だ!」と思うのに対して、逆に善人が悪人をやっつける場面では、「ざま~見ろ!」という感じで大いに爽快感を味わうわけです。その根底にあるものは「敵か味方か」という発想のように思われます。犯罪者は悪人=社会の敵。だからとことんやっつけてしまえば良い。逆に味方なら当然応援する。同じ「やっつける(=殴る・蹴る、さらには抹殺する)」行為が、善人が悪人に対してする場合には何の抵抗も感じないのに(むしろ、もっとやれ!)、悪人が善人に対してする場合には「この野郎!」と怒りさえ感じます。そして、「犯罪者=悪人に人権なんて、とんでもない!」ということにもなるのでしょう。
もし、この世界に善人と悪人とを判別する方法があるならば話は簡単ですね。それに従って悪人と判別された人をすべて抹殺すれば、残るのは善人だけということになるわけです。「デスノート」の夜神月の発想が正にそれですね(もちろん、彼に善人と悪人を判別する能力があるのかがそもそも問題なわけですが)。
しかし、犯罪を犯した人はすべて悪人すなわち社会の敵と考えるべきでしょうか。どんな犯罪を犯した人でも更生し改善する可能性は常にあるのではないでしょうか。逆に、犯罪者として追及されていない人が本当に全て善人でしょうか。聖書の中に、姦淫したとされる女を目の前に連れてこられて石打ちの刑にすべきかと問われたイエス・キリストは、「あなた方のうちで罪のない者が最初に石を投げなさい」と答えたところ、誰も石を投げることができなかったという話があります。人間は誰しもしばしば失敗や間違い(それが時には犯罪であることも)を犯し、その都度それを反省することによって成長するわけです。ですから、「罪を憎んで人を憎まず」という諺の通り、犯罪は抑止すべきですが、その犯罪者であってもあくまでも我々と同じ人間として取り扱うべきではないでしょうか。
 だからこそ、憲法上の基本的人権は「何人」にも保障されるものとして規定されています。憲法は善人と悪人とを、犯罪者とそれ以外の人とを区別していません。裁く者も裁かれる者も同じ人間なのです。では、人間が同じ人間を裁く場合にどういう制約あるいは限界があるのか。次回、「遠山の金さん」にご登場いただいて、考えてみたいと思います。
(AGULS第5号(2017/12/25)掲載