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法と裁判について(第3回)


                                   愛知学院大学法務支援センター教授 梅田 豊

前回は犯罪者も同じ人間であるということを確認しました。そこで、人間が同じ人間を裁く上でどのような制約または限界があるのかということを考える素材として、今回は「遠山の金さん」の「裁き」について考えてみたいと思います。
「遠山の金さん」と言えば人気のテレビ番組ですが、この物語には一定のパターンがあります。まず何かの事件が起きる。その事件の最後の解決の段階で、悪人たちとチャンバラをやる(その時点では、下町の長屋の住人「遊び人の金さん」として)。その際、金さんは必ず片肌(または両肌)脱いで桜吹雪の彫り物を見せる。そして、お白州では(北町奉行の遠山左衛門尉景元として)しらばっくれる悪人たちに向かって、再び片肌脱いで「この桜吹雪がお見通しでぇ!」と啖呵を切る。そこで悪人たちは、お奉行があの金さんだと知り、「畏れ入りました」とひれ伏す。最後に「これにて一件落着」との決まり文句が出る。大体こういうパターンですね。
ここで問題なのは、金さんはお奉行(つまり裁判官)でありながら、自分の桜吹雪の彫り物を示して、要するに「俺はお前らの悪事を目撃してるんだぞ。観念しろ!」ということですが、これはつまり金さん自身がこの事件の目撃証人だと主張しているわけです。
しかし、現代の法治国家の刑事裁判においては、これは許されません。と言うのも刑事訴訟法20条4号に「裁判官が事件について証人…となったとき」は「職務の執行から除斥される」つまり、その事件の裁判官から外れなければならない、と規定されているからです(ちなみに民事裁判も同様です。民事訴訟法23条1項4号)。なぜでしょうか。
ひょっとすると、「金さんが自分で体験した事実なんだから、間違いないだろ。なんでそれで裁判しちゃいけないんだよ?」と思われるかもしれませんね。しかし、現代の法治国家の刑事裁判においては、裁判官が法廷外での個人的な体験や個人的知識によって判断してはいけないのです。じゃあ何によって判断すれば良いのかということですが、これはもちろん証拠ですね(「事実の認定は、証拠による」刑訴法317条)。「でも、金さんが体験した事実は証拠にならないの?」と思われるでしょう。もちろん証拠にできますが、そのためには、金さんが証人として法廷(公判廷)で証言しなければなりません。とすると、ある事件の証人が同時にその事件の裁判官でもある、というのは変ですよね。
ここには、裁判の中立・公平・客観性に関わるとともに、被告人(悪人たち)の権利保障にかかわる問題があります。次回は、この点に関わる総括的なお話をして、とりあえずのまとめにしたいと思います。
(なお、念のために付言しますが、「遠山の金さん」の「裁き」を批判的に検討するのは、あくまでも現在の裁判制度の基準で考えてみた場合という仮定の上での話です。その当時の裁判の考え方・基準によって考えた場合には話は別だと思います。もちろん、ドラマとしての「遠山の金さん」の価値にケチを付ける積りは全くありません。)
(AGULS第6号(2018/01/25)掲載)