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安全運転


愛知学院大学法務支援センター教授 原田 保
 幼少時に、普通のマッチの箱に記載された「安全マッチ」という表示を見て、私は「危険マッチ」があるのか?と親に尋ねたことがあります。親は、昔の黄燐マッチのことを語り、「危険マッチ」と表示したら誰も買わないと言いました。
 これで理解できました。従来製品より「危険が小さい」ことを、「安全」と称しているのです。「安全ピン」や「安全カミソリ」も、怪我の危険は残っています。危険が全く感じられなければ、わざわざ「安全」と表示することはありません。例えば「安全布団」なんて、誰も言いません。
 つまり、「安全○○」という言葉は、その○○が「危険である」ことを明確に意識する表現なのです。「安全運転」も、自動車運転が危険だからこそ使用される言葉です。2トンの金属塊が秒速14メートルで飛び交う状態は、危険に決まっています。
 このような危険な行為を国として許すのが、「許された危険」の法理です。許す理由は、危険を冒すに値する利益にあります。欲しい品をいつでも入手できる状態は、多数のトラックが昼夜を問わず走り回ることによって維持されています。これはほんの一例ですが、各種便宜のための自動車走行に伴い、毎年数千名の人々が事故死します。自動車による事故死をゼロにする確実な方法は、自動車の禁止です。でも、運良く生き残る人々の便宜を優先させて、毎年数千名の犠牲を生じさせる危険を甘受する、という選択が行われているのです。
 だから、危険回避よりも優先されるべき利益の存否を熟慮しなければなりません。救急車の赤信号交差点通過は、一刻を争う救命の必要性が優先するという判断に基づいて、道路交通法に規定されています。社会的に承認できる利益がなければ、危険の作出・増大は許されません。
 本当に安全な自動車運転は、あり得ません。「安全運転」とは、自動車運転という危険な行為の際に「危険を増大させない」ことなのです。
(AGULS第32号(2020/3/25)掲載)