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人間の尊厳と個人の尊厳


  愛知学院大学法務支援センター教授 高橋 洋
 最近、尊厳という言葉を目にすることが多くなりました。たとえば、中日新聞の記事データベースで検索してみますと、「尊厳」というキーワードでヒットする数は、1995年に初めて3桁となり、多少の上下はありますが、2019年には187本となっています。2日に1度は尊厳に触れる記事を目にしているということになります。また朝日新聞では年に300本を超えています(2019年は380本)。また、尊厳という言葉は憲法にもあり(24条2項)、また法律でも使われる、いわゆる法令用語なのですが、2020年8月末現在で、条文に尊厳という用語を含む法律は36本になります。しかもその多くが21世紀に入ってから制定されたものです。これらのことは、尊厳という言葉がいろいろな場面で、いろいろな内容で使われているということを示しています。
 このように、尊厳という言葉は一般的によく使われるようになってきたと言っていいと思いますが、それではその尊厳が何を意味するのか、尊厳を保障するとはどういうことで、逆にどういう場合に尊厳を冒すことになるのか、あまり明確とは言えないようです。辞書を見ると、尊厳とは「とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。またそのさま。」(デジタル大辞泉)などという説明が与えられています。したがって、尊厳を保障するとは、その人の体面を貶めず、名誉や自尊心を傷つけない、ということが第一義と言うことになります。そうした尊厳否定の例として挙げられるのが、奴隷制であり、また拷問や残虐な刑罰です。ところが、尊厳というものは、かつては高貴なる者、つまり王家の人々や貴族、高位の官職にある者、そして命をかけて国家や都市を守る戦士にのみ認められ、保護されていたものでした。つまり、尊厳それ自体が不平等であったわけであり、現在のように「人間の尊厳」として、誰にでも認められるものではなかったのです。つまり現在の尊厳保障は特定の者にだけ保障されるものではなく、人間でありさえすれば誰にでも認められるものであり、だからこそ、奴隷制は、古代ギリシャやローマでは存在し得ても、現在では存在の余地がないのです。しかし、尊厳感情は、一定の制度を前提としてはぐくまれますから、そうした制度のもとで「高貴なる者」に属していた人たちは、そのような制度がなくなることによって、つまりみんなが平等になることによって、自己の尊厳が損なわれたと感じることがありえます。古い尊厳は退場しなければならないのですが、そう一筋縄ではいきません。
 また、「人間の尊厳」という場合には、その尊厳の内容は全ての者に共通のものということになります。一言で言えば、人間を人間として遇するということですが、その共通となる尊厳だけを追求していけば、その中身は乏しいものになっていきます。現在新聞で取り上げられている尊厳は、多様で異なった内容を持っていることが少なくないわけですが、それは各個人に特有の尊厳の主張だと言うことになります。今まで自己の尊厳を主張することを躊躇してきた人たちが声を上げてきている、ということです。日本国憲法は「個人の尊厳」という言い方をします。これは、各人のおかれた状況によって、大事に思うことが違うということ、尊厳の有り様が違うということを意味しているように思います。そうした尊厳自体の多様性を認め、それぞれの人たちの尊厳感情を尊重し、かつ場合によっては調整し、さらに尊厳ある処遇を保障していくことが課題であろうと思います。
(AGULS第38号(2020/9/25)掲載 )