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罪の償い


愛知学院大学名誉教授・弁護士 原田保
 刑の執行が終了したことを以て「罪を償った」と表現することは、一応可能である。しかし、刑は犯罪に対する応報として害悪を受けることによる国への償いであり、それが直ちに被害者への償いになる訳ではない。被害者への償いは、原状回復・損害賠償として被害者に何等かの利益を提供することであり、これは民法上の不法行為責任である。多くの犯罪は同時に不法行為であるが、各々の法的意義は異なる。犯罪者=不法行為者は国に対する責任と被害者に対する責任との双方を負担するのであって、犯罪に関する国の権限と不法行為に関する被害者の権利とは別物である。両者を混同してはならない旨および加害者による原状回復・損害賠償が行われない場合への対応については、過去のブログに何度も書いたので、ここでは反復しない。

 以上は、法律上の的償いである。然るに、生身の人間関係のうち、法律で処理できるのは、ごく一部でしかない。現実社会において、法律上の権利義務よりも法律の及ばない事柄の方が遙かに重要であることは、珍しくもない。権利を行使しないことや義務のない負担を引き受けることが、人間関係の平穏・円滑に資することもある。また、法律上の償いが完遂された後でも、引き続き道義的には謝罪が期待される。しかし、謝罪も、簡単な事柄ではない。謝罪と称する言動が加害者の自己満足でしかなく被害者の再被害を生じることもあり、被害者の満足・宥恕を得ることは決して容易ではない。仮に得られたとしてても、それで「リセット」になる訳ではない。
 刑の執行が終了しても、前科が抹消されても、罪を犯したという過去の事実は消滅しない。原状回復・損害賠償が完了しても、被害を受けたという過去の事実は消去できない。何があっても、「加害・被害のない状態」に戻ることは決してない。絶対に、取り返しはつかない。

 被害者は、過去の被害という永久不変の事実と共に生きることを余儀なくされている。想起する度に、被害時の感情が蘇る。その意味で、被害者は生涯に亘って被害を受け続ける。被害が反復継続するなら、償いも反復継続しなければならない筈だ。生きている限り、終わることはない。時効があり得る筈もない。それが、「罪を背負って生きる」ということだ。法律上の犯罪・不法行為に該当しない加害・被害でも、この点に違いはない。善行に対する賞讃が永久に続くなら、悪行に対する非難も永久に続く。本人への罵倒を反復するべきではないとしても。
 これは、法律論ではない。だから、法律論での反論は無意味であり、法律論に持ち込める論理ではない。法律論と非法律論との区別が必要であることを失念してはならない。

 一生をかけても償いきれない自己の罪悪感に苛まれ続ける人がいる。殺しても飽き足らない他者への憤激・憎悪・怨恨・怨念を抱き続ける人がいる。そのような人の感情が、「永久に苦痛が続く地獄」というものを発明した。逆に、「永久に幸福な天国・極楽浄土」や「霊魂」は、大切な他者の死亡に直面し、あるいは自分自身の死亡を予期して、「消滅」という真実の事実に耐えられず「存在継続」と思いたい人の感情が発明したものだ。
 これは、駄文筆者の勝手な考えであり、法律とは懸け離れている。それでも、法律と宗教との関係の一部かもしれない。これも、駄文筆者の勝手な考えである。
(令5・2・10)