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犯罪被害者への支援に関する私見


犯罪被害者への支援に関する私見
                                          法科大学院教授 (刑事法) 原田保

 約2年半前に量刑問題に関する私見をこのブログに書いたが、そこで一言の問題提起だけを記した被害者問題について、私見を書いておく。これも、司法試験には役立たないと思う。

 まず基本事項として、被害者対策の制度設計は「犯人死亡事案」を原則類型とするべきである。金銭関係としては、さしあたり税金・公共料金の減免を、犯罪被害者一般の具体的権利として法令に規定して実行するべきである。以下、私見の理由を述べる。本稿での「被害者」という表記は遺族等を含める趣旨である。

 大多数の事件では責任を負うべき犯人が生きて存在している。制度設計は「よくある事案」を想定するべきであって「稀な事案」を原則にするのは不合理だ、という批判はあり得る。しかし、制度設計は、事案の多寡だけでなく、制度の趣旨に関する考慮を要する。
 例えば、刑事被告事件裁判の件数は、略式手続が圧倒的多数に上り、少数に留まる公判審理も相当数が簡易公判手続である。しかし、刑事訴訟法の規定では、正式公判が原則であって略式手続も簡易公判手続も例外である。原則・例外が件数と規定とで逆転しているのである。
 その理由は刑事被告事件裁判の趣旨にある。人に刑を科すという重大な結論に鑑み、被告人に反論の機会を保障するべく、件数が少ないことは判っていながら敢えて、被告人が争う場合を原則類型としているのである。

 被害者対策の内容は当然に被害者への支援であり、それは被害者の権利として保障されるべきものである。犯人が生きていて責任追及・損害賠償が可能であることを前提とするなら、それは被害者の権利自体としての保障ではない。犯人が死んでいても無一文でも、被害者自身の権利として受けるべき支援はあり得る。ならば、まず犯人を無視して被害者支援策を講じるべきであり、だからこそ犯人への対処があり得ない犯人死亡事案を想定して被害者支援制度を設計するべきだ、と私は考えるのである。犯人が生きているなら責任追及は当然であるが、それは後の話である。
 そして、被害者支援は多様な内容のものであり、金銭は支援の一部でしかない。しかし、一部であっても軽視し難い重要な一部である。これを犯人の状況と無関係に保障するための合理的方法は、まず国・自治体からの支出である。現在のところ、正面からの公金支出制度は重大人身犯罪に関する犯罪被害者等給付金しかない。組織的犯罪による財産被害に関する没収財産からの被害回復給付金も一応これと並べることは可能であり、税法上の各種控除が類似の効果を生じる場合もある。しかし、これで十分であるとは思えない。外国に拉致された被害者に対して行われたような支援は犯罪被害者全般に必要であり、包括的支援策の手始めとして各種犯罪被害の内容・程度に応じた税金・公共料金の減免を行うべきだ、と私は考えるのである。犯人への責任追及はその次である。

 地球上には、不法行為に関して被害者が加害者に損害賠償を請求するという制度を廃止した国もある。損害はまず国が補償し、その後に国から加害者への求償が行われるが、加害者が支払不能であれば仕方なく国が支出したままになる。日本では、かかる制度を採用した国があることすら周知されているようには見えないが、ハイテク兵器や宇宙の神秘に何百億円も支出する余裕があるなら犯罪被害に苦しむ人々の日常生活回復を優先するべきだ、と私は考える。
 犯罪被害者等基本法で犯人の責任とは別に被害者自身の権利が認められているが、プログラム規定に留まる。同法前文で加害者の第一義的責任を論じる点にも問題が遺り、被害者保護を標榜して作られた具体的制度は犯人処罰への被害者参加および犯人に対する損害賠償請求への助力である。どちらも犯人への責任追及を前提としており、犯人への責任追及が被害者の権利の中核とされている。実態としても、兇悪殺人事件で死刑が宣告されたり、無謀運転死傷事件で危険運転致死傷罪成立が肯定されたりすると、それで被害者の権利が実現されたかのように評価される。「被害者の権利=犯人処罰」という錯覚の故に、傷病が治癒に至らず平穏な生活が回復されないままでも、その点に関する被害者支援は失念される。私は、小泉八雲『怪談』の「機略」を想起してしまう。

 更に、「被害者の権利=犯人処罰」という錯覚は、犯人死亡事案の被害者を無権利状態に置くことになる。犯人が生きている事案では犯人処罰に関する被害者の意向が大々的に報じられることがあるが、犯人死亡事案の被害者にはそのような機会もなく、一部の被害者が給付金の対象となるだけで、他は完全に忘れられているように見える。私は、これが正義に適うと思わない。犯人が死亡して犯人への対処がなければ被害者への対処もないというのは、絶対におかしい。

 新潟監禁事件で主に議論されていたのは、犯人への科刑方法である。女子小学生を略取して成人直前まで監禁し続けた悪辣な犯罪に対して可能な限り重い刑を科そうという判断自体に合理性はある。略取監禁事件は他にもあるが、どの事件でも学校教育の機会を奪われた被害者に教育支援が必要であることはあまりにも明白である。略取以後1日も登校せず進級・卒業の要件を欠く被害者に卒業証書を渡して対処終了にするなら、違法な教育放棄という更なる権利侵害でしかない。大多数の人々が得る経験を全く得られないまま年月を過ごした被害者が爾後どのように生活するのか。同級生だった人々と同等に生活するための諸条件を如何にして整備するのか。そのような問題への対処こそが被害者への支援である。犯人を刑務所で何年間服役させても、それで被害者の生活条件が整備されるとは到底考えられない。
 もう1件、著名ではない事件を挙げる。まともな生活手段を持たない前科者が、刑務所釈放の直後に、衣食住確保のため懲役に処せられたいとの動機から、たまたま近くにいた見知らぬ女子高校生を殺害する意思で刺した。死亡には至らなかったが、入院加療1ヶ月の重傷である。高校3年次の秋にこのような状況に陥ることが爾後の進路に対して如何に深刻な障碍になるかは、論じるまでもない。その場にいた同級生達が受けた衝撃も、想像を絶する。厳罰に値する兇悪犯罪であるが、無期懲役に処せられると犯人は終身の衣食住確保に歓喜するであろう。仮に死刑なら生活苦からの解放に安堵するかもしれない。いずれにしても、被害者の学業や生活の再建には全く役立たない。
 刑罰は、所詮この程度のものでしかないのである。刑罰への過剰期待は刑事法の歪曲という問題も生じるが、本稿では論じない。

 私は前記各事件被害者の爾後の状況を知らない。現実的支援方法を持たない者が詮索するべき事柄でもない。しかし、被害者の爾後の生活が看過できない重大問題であることに、異論の余地はない筈である。そして、そのための支援方法を真剣に検討しようとするなら、犯人処罰の方法を議論している暇はない筈である。
 だから、繰り返して言う。被害者の権利としてまず犯人処罰を論じると、犯人処罰だけで目的達成という錯覚を生じて真実必要な被害者支援が失念される。犯人死亡事案の被害者は無視される。このような事態を回避して被害者の権利をそれ自体として実現するためには、犯人死亡事案を原則類型とする被害者支援制度を設計するべきである。国や自治体は、そのための支出を行うべきであり、手始めに税金・公共料金の減免を行うべきである。