撒骨 (散骨) に関する妄説 [撒骨・その2]
愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保
撒骨 (散骨) に関する言説につき、虚偽・誤謬を指摘した平成29年7月13日付けブログに続けて、虚偽・誤謬ではないとしても内容的に著しく不合理な妄説を指摘する。
[1] 遺灰が遺骨に該当しないという解釈はおかしい
撒骨に際して、骨を粉末状に粉砕して骨だと判らなくなるようにせよとの指示が行われている。撒布された骨が無関係な他人の所有地に落下して紛争になった例があり、これが一部自治体による撒骨規制条例制定の契機になった。だから、粉末化は紛争回避手段という意味を持つ。無関係な他人の所有地に落下しても、繁華街で撒いても、人骨だと判らなければ騒がれることはない。ここで考慮されているのは「人骨撒布という真実の事実が発覚しないようにする」ことであるが、それで済むのか否かは後日に論じる。
本駄文では刑法上の概念について述べる。「骨だと判らなくなった遺灰は遺骨ではないから撒布しても遺骨遺棄罪にならない」という言説が流布され、これにも法務省公式見解というデマが及んでいるが、知識不足・理解不足による妄説と評する他ない。
刑法190条・191条所定の「遺骨」につき定義規定は存在せず、その概念は解釈に委ねられている。判例・通説の定義は「死者の記念のために保存するべき骨」であり、形状や大きさ等の外見は無関係であるが、「骨だと判らなくなった遺灰は刑法上の遺骨に該当しない」という縮小解釈も論理的には可能である。しかし、主張する際には、次の2点の事実を知っておくべきである。
① 刑法研究者の著作にも裁判所の判例にも、そのような縮小解釈は見当たらない。
② そのような縮小解釈は、著しく不合理な結論を導く。
第1点は、要するに、「そんなことを言う専門家はいない」ということである。遺灰が遺骨の一種であることは、昔から当然のこととされてきた。確固たる判例・通説に逆らうことは自由だが、よほど説得的な論拠を提示しない限り、刑法学会では無視され、裁判所では「独自の見解」として一蹴される。この事実を知らずに主張するなら、唯の愚劣である。
第2点は「遺灰に対して何をしても罪にならない」という是認し難い結論を導くことであり、これは専門家がこの縮小解釈を採用しないという第1点の理由でもある。遺灰が刑法190条・191条の遺骨に該当しないなら、近日中の撒骨または永久的な保存を意図して所持している遺族から奪う行為は遺骨領得罪に該当せず、専ら死者の尊厳を害する意思でゴミ捨て場に撒いても遺骨遺棄罪に該当しない、という結論になる。財産犯罪との関係を述べると長くなるので省略するが、窃盗罪・器物損壊罪の成立も認められない。遺灰を刑法190条・191条の客体から外すと、節度といった行為制約を論じる余地はなくなり、撒骨だけでなく遺灰に対するあらゆる行為が無罪になる。
更に、遺灰を遺骨概念から外す理由も著しく不合理である。「人骨だと判らなければ刑法上の遺骨ではない」と論じるなら、人の死体を挽肉にして人肉だという識別を不可能にすると刑法上の死体に該当しないことになる。外見上の識別可能性を基準にするなら、これが論理必然的な結論である。そうすると、挽肉にする行為は死体損壊罪だが、既に挽肉になった人肉をどのように扱っても罪にならないことになる。
遺灰は遺骨に該当しないと主張する人がこのような結論を認識しているのか否か、駄文筆者は知らない。この結論を認識して是認するなら、異世界の人だとしか思えない。この結論を認識していないなら、ここで認識して、それでも遺灰は遺骨に該当しないと主張し続けるのか否か、自分の頭で考えて頂きたい。
遺灰は遺骨に該当しないという妄説の発明者が誰であるのか、駄文筆者は知らない。某大学教授・法学博士・弁護士という肩書を持つ人の著作にこの説の提示があるが、この人の専攻分野は刑法でも宗教法でもない。葬送について犯罪構成要件該当性否定を論じるべき場面で違法性阻却を論じており、犯罪成否論証方法を理解していない。他者への侵害については撒布現場で人骨だと具体的に認識した特定個人の感情を論じるだけであり、刑法190条・191条の法益が行為自体に対する公衆の感情という社会法益であることを理解していない。
法学部教授にせよ弁護士にせよ、あらゆる法令の内容を熟知している訳ではない。肩書を盲信することなく、言説内容を精査するべきである。駄文筆者は刑法学会および宗教法学会に所属する教授・博士だが、これは言説の正当性を保証するものではない。本駄文の内容の当否については、定評ある教科書・注釈書を見て自分で判断して頂きたい。なお、インターネット情報は玉石混淆であり「ガセネタの宝庫」であるから、十分な知識を持たずに閲覧すると頭の中が虚偽情報や妄説で汚染される危険があることを、付言しておく。
[2] 個人の自由や権利だけでは済まない
葬送について個人の自由や権利として論じる見解が主張されているが、現行法解釈論なのか立法政策論なのか判然としないものもある。現行法解釈論として無制限な葬送の自由を論じるなら前回ブログで述べた論理的誤謬に属するが、分割して論じる煩瑣を回避するために、今回の不合理な妄説の中で指摘する。
刑法190条・191条の法益は、国民の宗教感情、死者に対する公衆の敬虔感情、といった言葉で表現される社会法益である。文言上「他人の」死体・遺骨に限定されていないから、遺族も同条の処罰対象になり得るのであり、遺族の個人法益では説明し得ない。
また、墓埋法も行旅病人及行旅死亡人取扱法も、身元不明または天涯孤独の死者につき、死体の土葬・火葬を行政機関に義務付けている。義務の内容が「汚物処理」ではなく「葬送」であることから、ゴキブリやドブネズミの死体と異なり、「人の死体は葬送を要する」という社会的要請の存在が看取される。社会的に要請される葬送は、当然に、社会通念上葬送と認められる行為でなければならない。
この社会的要請が現行法体系の前提であり、故に、葬送を個人の自由・権利だけで論じることは、現行法解釈として成立し得ない論理的誤謬である。現行法を前提として葬送の自由を論じるなら、社会通念上の葬送の中から選択する自由に留まる。
この社会的要請の範囲や社会通念の内容こそが、議論するべき論点である。前述した教授・法学博士・弁護士は、社会通念の問題を曖昧にしたまま、行為制約理由として具体的個人の感情に対する侵害だけを提示している。かかる言説によると、他者に知られなければ他者への侵害は存在しないことになるが、この点について論じることは後日に譲り、ここでは、葬送を純粋な私事として無制限な葬送の自由を認めるとどうなるか、という点だけを指摘する。
当事者が葬送だと考えていれば、どんな死体取扱も葬送であることになる。ミイラを居間に飾る。死体の頭部を切断して乾首ペンダントを作る。死体を食べる。どれも、当事者が葬送だと考えて遂行するなら葬送と認めるべきことになる。墓埋法を撒骨許容の根拠にすることが論理的誤謬であることは前回ブログで述べたが、撒骨について墓埋法に禁止規定がないから許容されていると論じるなら、乾首ペンダントも人肉食も墓埋法上許容されていることになる。
また、個人の権利は放棄できるから、葬送しない自由も当然に認められる。老親の死体を居宅内に放置しても、不作為死体遺棄罪はあり得ない。前夜の食卓に上った魚の残骸と一緒に老親の死体を生ゴミ回収袋に入れて朝8時までに回収場所に出せば、清掃局に処理してもらえる。天涯孤独の人の死体や遺族が葬送権を放棄した死体は誰の権利も担っていないから、誰が何をしても構わない。行政機関の義務は専ら汚物処理であって、葬送という無駄を行うべきでない。むしろ、各種製品の原料として有効利用することが望ましい。
死体処理を純粋に個人の自由・権利として論じることは、必然的にこれらの行為を是認するという結論をもたらす。前述した教授・法学博士・弁護士の言説によれば、人骨・人肉だと他者に気付かれない限り制約できない。抽象化された一般人が行為自体に対して抱く筈の感情を基準とする社会法益という概念を否定すれば、論理的に可能である。主張することは自由だが、主張する際には、そのような自由・権利の行き着く先を認識しておくべきである。そこまで言う心算がないなら、発覚の有無と無関係な制約を提示するべきであり、それは葬送が個人の自由や権利だけでは済まないことを意味するのである。
(平29・8・9)
撒骨 (散骨) に関する言説につき、虚偽・誤謬を指摘した平成29年7月13日付けブログに続けて、虚偽・誤謬ではないとしても内容的に著しく不合理な妄説を指摘する。
[1] 遺灰が遺骨に該当しないという解釈はおかしい
撒骨に際して、骨を粉末状に粉砕して骨だと判らなくなるようにせよとの指示が行われている。撒布された骨が無関係な他人の所有地に落下して紛争になった例があり、これが一部自治体による撒骨規制条例制定の契機になった。だから、粉末化は紛争回避手段という意味を持つ。無関係な他人の所有地に落下しても、繁華街で撒いても、人骨だと判らなければ騒がれることはない。ここで考慮されているのは「人骨撒布という真実の事実が発覚しないようにする」ことであるが、それで済むのか否かは後日に論じる。
本駄文では刑法上の概念について述べる。「骨だと判らなくなった遺灰は遺骨ではないから撒布しても遺骨遺棄罪にならない」という言説が流布され、これにも法務省公式見解というデマが及んでいるが、知識不足・理解不足による妄説と評する他ない。
刑法190条・191条所定の「遺骨」につき定義規定は存在せず、その概念は解釈に委ねられている。判例・通説の定義は「死者の記念のために保存するべき骨」であり、形状や大きさ等の外見は無関係であるが、「骨だと判らなくなった遺灰は刑法上の遺骨に該当しない」という縮小解釈も論理的には可能である。しかし、主張する際には、次の2点の事実を知っておくべきである。
① 刑法研究者の著作にも裁判所の判例にも、そのような縮小解釈は見当たらない。
② そのような縮小解釈は、著しく不合理な結論を導く。
第1点は、要するに、「そんなことを言う専門家はいない」ということである。遺灰が遺骨の一種であることは、昔から当然のこととされてきた。確固たる判例・通説に逆らうことは自由だが、よほど説得的な論拠を提示しない限り、刑法学会では無視され、裁判所では「独自の見解」として一蹴される。この事実を知らずに主張するなら、唯の愚劣である。
第2点は「遺灰に対して何をしても罪にならない」という是認し難い結論を導くことであり、これは専門家がこの縮小解釈を採用しないという第1点の理由でもある。遺灰が刑法190条・191条の遺骨に該当しないなら、近日中の撒骨または永久的な保存を意図して所持している遺族から奪う行為は遺骨領得罪に該当せず、専ら死者の尊厳を害する意思でゴミ捨て場に撒いても遺骨遺棄罪に該当しない、という結論になる。財産犯罪との関係を述べると長くなるので省略するが、窃盗罪・器物損壊罪の成立も認められない。遺灰を刑法190条・191条の客体から外すと、節度といった行為制約を論じる余地はなくなり、撒骨だけでなく遺灰に対するあらゆる行為が無罪になる。
更に、遺灰を遺骨概念から外す理由も著しく不合理である。「人骨だと判らなければ刑法上の遺骨ではない」と論じるなら、人の死体を挽肉にして人肉だという識別を不可能にすると刑法上の死体に該当しないことになる。外見上の識別可能性を基準にするなら、これが論理必然的な結論である。そうすると、挽肉にする行為は死体損壊罪だが、既に挽肉になった人肉をどのように扱っても罪にならないことになる。
遺灰は遺骨に該当しないと主張する人がこのような結論を認識しているのか否か、駄文筆者は知らない。この結論を認識して是認するなら、異世界の人だとしか思えない。この結論を認識していないなら、ここで認識して、それでも遺灰は遺骨に該当しないと主張し続けるのか否か、自分の頭で考えて頂きたい。
遺灰は遺骨に該当しないという妄説の発明者が誰であるのか、駄文筆者は知らない。某大学教授・法学博士・弁護士という肩書を持つ人の著作にこの説の提示があるが、この人の専攻分野は刑法でも宗教法でもない。葬送について犯罪構成要件該当性否定を論じるべき場面で違法性阻却を論じており、犯罪成否論証方法を理解していない。他者への侵害については撒布現場で人骨だと具体的に認識した特定個人の感情を論じるだけであり、刑法190条・191条の法益が行為自体に対する公衆の感情という社会法益であることを理解していない。
法学部教授にせよ弁護士にせよ、あらゆる法令の内容を熟知している訳ではない。肩書を盲信することなく、言説内容を精査するべきである。駄文筆者は刑法学会および宗教法学会に所属する教授・博士だが、これは言説の正当性を保証するものではない。本駄文の内容の当否については、定評ある教科書・注釈書を見て自分で判断して頂きたい。なお、インターネット情報は玉石混淆であり「ガセネタの宝庫」であるから、十分な知識を持たずに閲覧すると頭の中が虚偽情報や妄説で汚染される危険があることを、付言しておく。
[2] 個人の自由や権利だけでは済まない
葬送について個人の自由や権利として論じる見解が主張されているが、現行法解釈論なのか立法政策論なのか判然としないものもある。現行法解釈論として無制限な葬送の自由を論じるなら前回ブログで述べた論理的誤謬に属するが、分割して論じる煩瑣を回避するために、今回の不合理な妄説の中で指摘する。
刑法190条・191条の法益は、国民の宗教感情、死者に対する公衆の敬虔感情、といった言葉で表現される社会法益である。文言上「他人の」死体・遺骨に限定されていないから、遺族も同条の処罰対象になり得るのであり、遺族の個人法益では説明し得ない。
また、墓埋法も行旅病人及行旅死亡人取扱法も、身元不明または天涯孤独の死者につき、死体の土葬・火葬を行政機関に義務付けている。義務の内容が「汚物処理」ではなく「葬送」であることから、ゴキブリやドブネズミの死体と異なり、「人の死体は葬送を要する」という社会的要請の存在が看取される。社会的に要請される葬送は、当然に、社会通念上葬送と認められる行為でなければならない。
この社会的要請が現行法体系の前提であり、故に、葬送を個人の自由・権利だけで論じることは、現行法解釈として成立し得ない論理的誤謬である。現行法を前提として葬送の自由を論じるなら、社会通念上の葬送の中から選択する自由に留まる。
この社会的要請の範囲や社会通念の内容こそが、議論するべき論点である。前述した教授・法学博士・弁護士は、社会通念の問題を曖昧にしたまま、行為制約理由として具体的個人の感情に対する侵害だけを提示している。かかる言説によると、他者に知られなければ他者への侵害は存在しないことになるが、この点について論じることは後日に譲り、ここでは、葬送を純粋な私事として無制限な葬送の自由を認めるとどうなるか、という点だけを指摘する。
当事者が葬送だと考えていれば、どんな死体取扱も葬送であることになる。ミイラを居間に飾る。死体の頭部を切断して乾首ペンダントを作る。死体を食べる。どれも、当事者が葬送だと考えて遂行するなら葬送と認めるべきことになる。墓埋法を撒骨許容の根拠にすることが論理的誤謬であることは前回ブログで述べたが、撒骨について墓埋法に禁止規定がないから許容されていると論じるなら、乾首ペンダントも人肉食も墓埋法上許容されていることになる。
また、個人の権利は放棄できるから、葬送しない自由も当然に認められる。老親の死体を居宅内に放置しても、不作為死体遺棄罪はあり得ない。前夜の食卓に上った魚の残骸と一緒に老親の死体を生ゴミ回収袋に入れて朝8時までに回収場所に出せば、清掃局に処理してもらえる。天涯孤独の人の死体や遺族が葬送権を放棄した死体は誰の権利も担っていないから、誰が何をしても構わない。行政機関の義務は専ら汚物処理であって、葬送という無駄を行うべきでない。むしろ、各種製品の原料として有効利用することが望ましい。
死体処理を純粋に個人の自由・権利として論じることは、必然的にこれらの行為を是認するという結論をもたらす。前述した教授・法学博士・弁護士の言説によれば、人骨・人肉だと他者に気付かれない限り制約できない。抽象化された一般人が行為自体に対して抱く筈の感情を基準とする社会法益という概念を否定すれば、論理的に可能である。主張することは自由だが、主張する際には、そのような自由・権利の行き着く先を認識しておくべきである。そこまで言う心算がないなら、発覚の有無と無関係な制約を提示するべきであり、それは葬送が個人の自由や権利だけでは済まないことを意味するのである。
(平29・8・9)