撒骨 (散骨) に関して流布された言説への批判 [撒骨・その4]
愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保
撒骨 (散骨) に関する議論の一環として、世間に流布された言説を分析して必要な批判を加えておく。
撒骨業者のHPには、概して次のような記述がある。
① 節度ある撒骨は適法であって遺骨遺棄罪にならない。
② 撒布の際に骨だと判らないように粉末化して他人に迷惑をかけないことが、節度である。
③ 骨をそのまま撒くと遺骨遺棄罪になるが、粉末化した遺灰なら刑法上の遺骨に該当しないから撒布しても遺骨遺棄罪にならない。
④ 以上は、法務省の見解である。
かかる言説のうち、③④については過去の撒骨ブログで述べた。③は、骨を粉末化しても法益に関する変化が生じないことを看過した素人の妄説であって、裁判所でも学会でも賛同されない。④については、「非公式」という表記の例もあるが、いずれにしても「法務省の」という点は虚偽であり、真実は法務官僚1人の個人的見解表明でしかない。当該言説が口頭発言ではなく「法務省」「法務省刑事局」の名義を付した文書であったなら、当該法務官僚は「公文書偽造罪」の責を負うことになる。以下、今回は①②について論じる。
[1] 節度云々は犯罪成否の判断基準にならない
①の元になっているのは「法務省公式見解」という偽名で報道された某法務官僚口頭発言であり、その内容は刑法190条の法益が社会的習俗としての宗教的感情等である旨を指摘して「葬送のための祭祀で節度を以て行う限り問題ない」というものである。
この言説は、遺骨遺棄罪等の法益を指摘した上で適法評価の条件を提示していることから、「葬送のための祭祀で節度ある撒骨は同罪の法益を侵害しない」という解釈であると理解できる。これは葬送について同罪構成要件該当性を否定する論理であり、この論理自体は当然に肯定されるべきものである。某大学教授・法学博士・弁護士の肩書を持つ人がこれを違法性阻却だと述べているが、これはこの人が遺骨遺棄罪成否に関する刑法の論理構造を理解していないという事実の証明である。
当該法務官僚言説の内容的問題点は、適法評価の条件が余りにも曖昧であって犯罪成否判断基準としての用をなさないことである。少なくとも判断基準が「行為者」なのか「一般人」なのかを明示することが法律学の常識であるにも拘らず、この程度の基本的事項すら欠いている。法律家の言説とは認め難い粗雑なものである。
この曖昧さは、その内容に関する不合理な言説を派生させた。刑法190条・191条の法益が社会法益であることから当然に基準は「一般人」「社会通念」である筈なのに、この点を無視して「行為者の信じる節度」で適法評価する言説が流布されるようになった。それが葬送を個人の権利や自由だけで論じる見解であり、②の言説はその一部である。
[2] 骨だと気付かれないことは犯罪不成立の理由にならない
②の言説は、骨だと判る状態で撒布すると気付いた人が驚愕して不快に感じる旨を指摘している。それは、その通りだ。これを他人への迷惑と表現しても、誤りではない。実際に、そのような紛争があって、幾つかの自治体が撒骨規制条例を制定するに至った。
だから、粉末化は「骨だと気付かれないようにする」という紛争回避手段である。これが前記①の「節度」と結び付けられて適法評価の条件とされているが、遺骨遺棄罪の解釈としては論点齟齬である。刑法190条・191条の趣旨を全く理解していない。
遺骨遺棄罪を含む刑法190条・191条の法益は、具体的個人の感情ではなく、公衆の感情という社会法益である。この感情は、抽象化された「公衆」「一般人」が「行為自体」に対して抱くと想定される感情である。つまり、人骨撒布という真実の事実を「知ったら如何に感じるか」という問題であって、誰かが実際に知って抱いた感情を論じる訳ではない。
だから、人骨撒布に気付いた人がいなくても、それは法益侵害・犯罪成立を否定する理由にならない。骨だと気付かれないような遺灰の撒布でも、裁判所が「それは違法だ」と判断する可能性は否定できない。そのような司法判断が示されたら、日本国の確定的評価として違法なのであり、法務官僚や撒骨業者が何と言っていようが関係ない。
「骨だと気付かれなければ他人に迷惑をかけないから適法だ」という言説は、要するに、「バレなければ罪にならない」ということである。こんな暴論が通用するとは考え難い。
このように、少なからざるHPで喧伝されている言説は、犯罪成否基準としての使用に耐えない粗雑なものであり、遺骨遺棄罪に関する理解欠如に基づいている。犯罪成否を論じる際には刑法を正しく理解しておくべきであり、判例・通説に逆らう際には判例・通説の内容を知って反論するべきである。
(平29・9・19)
撒骨 (散骨) に関する議論の一環として、世間に流布された言説を分析して必要な批判を加えておく。
撒骨業者のHPには、概して次のような記述がある。
① 節度ある撒骨は適法であって遺骨遺棄罪にならない。
② 撒布の際に骨だと判らないように粉末化して他人に迷惑をかけないことが、節度である。
③ 骨をそのまま撒くと遺骨遺棄罪になるが、粉末化した遺灰なら刑法上の遺骨に該当しないから撒布しても遺骨遺棄罪にならない。
④ 以上は、法務省の見解である。
かかる言説のうち、③④については過去の撒骨ブログで述べた。③は、骨を粉末化しても法益に関する変化が生じないことを看過した素人の妄説であって、裁判所でも学会でも賛同されない。④については、「非公式」という表記の例もあるが、いずれにしても「法務省の」という点は虚偽であり、真実は法務官僚1人の個人的見解表明でしかない。当該言説が口頭発言ではなく「法務省」「法務省刑事局」の名義を付した文書であったなら、当該法務官僚は「公文書偽造罪」の責を負うことになる。以下、今回は①②について論じる。
[1] 節度云々は犯罪成否の判断基準にならない
①の元になっているのは「法務省公式見解」という偽名で報道された某法務官僚口頭発言であり、その内容は刑法190条の法益が社会的習俗としての宗教的感情等である旨を指摘して「葬送のための祭祀で節度を以て行う限り問題ない」というものである。
この言説は、遺骨遺棄罪等の法益を指摘した上で適法評価の条件を提示していることから、「葬送のための祭祀で節度ある撒骨は同罪の法益を侵害しない」という解釈であると理解できる。これは葬送について同罪構成要件該当性を否定する論理であり、この論理自体は当然に肯定されるべきものである。某大学教授・法学博士・弁護士の肩書を持つ人がこれを違法性阻却だと述べているが、これはこの人が遺骨遺棄罪成否に関する刑法の論理構造を理解していないという事実の証明である。
当該法務官僚言説の内容的問題点は、適法評価の条件が余りにも曖昧であって犯罪成否判断基準としての用をなさないことである。少なくとも判断基準が「行為者」なのか「一般人」なのかを明示することが法律学の常識であるにも拘らず、この程度の基本的事項すら欠いている。法律家の言説とは認め難い粗雑なものである。
この曖昧さは、その内容に関する不合理な言説を派生させた。刑法190条・191条の法益が社会法益であることから当然に基準は「一般人」「社会通念」である筈なのに、この点を無視して「行為者の信じる節度」で適法評価する言説が流布されるようになった。それが葬送を個人の権利や自由だけで論じる見解であり、②の言説はその一部である。
[2] 骨だと気付かれないことは犯罪不成立の理由にならない
②の言説は、骨だと判る状態で撒布すると気付いた人が驚愕して不快に感じる旨を指摘している。それは、その通りだ。これを他人への迷惑と表現しても、誤りではない。実際に、そのような紛争があって、幾つかの自治体が撒骨規制条例を制定するに至った。
だから、粉末化は「骨だと気付かれないようにする」という紛争回避手段である。これが前記①の「節度」と結び付けられて適法評価の条件とされているが、遺骨遺棄罪の解釈としては論点齟齬である。刑法190条・191条の趣旨を全く理解していない。
遺骨遺棄罪を含む刑法190条・191条の法益は、具体的個人の感情ではなく、公衆の感情という社会法益である。この感情は、抽象化された「公衆」「一般人」が「行為自体」に対して抱くと想定される感情である。つまり、人骨撒布という真実の事実を「知ったら如何に感じるか」という問題であって、誰かが実際に知って抱いた感情を論じる訳ではない。
だから、人骨撒布に気付いた人がいなくても、それは法益侵害・犯罪成立を否定する理由にならない。骨だと気付かれないような遺灰の撒布でも、裁判所が「それは違法だ」と判断する可能性は否定できない。そのような司法判断が示されたら、日本国の確定的評価として違法なのであり、法務官僚や撒骨業者が何と言っていようが関係ない。
「骨だと気付かれなければ他人に迷惑をかけないから適法だ」という言説は、要するに、「バレなければ罪にならない」ということである。こんな暴論が通用するとは考え難い。
このように、少なからざるHPで喧伝されている言説は、犯罪成否基準としての使用に耐えない粗雑なものであり、遺骨遺棄罪に関する理解欠如に基づいている。犯罪成否を論じる際には刑法を正しく理解しておくべきであり、判例・通説に逆らう際には判例・通説の内容を知って反論するべきである。
(平29・9・19)