撒骨 (散骨) に関して必要な議論 [撒骨・その5・一応完]
愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保
若干の私見を述べつつ、議論するべき問題点を指摘する。
[1] 犯罪概念中の位置付け
葬送が死体等に対する罪にならない理由は、伝統的葬法についても不明確である。私見としては、死因調査のための死体解剖や移植のための臓器摘出が死体損壊罪構成要件該当行為の違法性阻却であることと異なり、葬送なら同罪構成要件不該当だと解するが、火葬は違法性阻却だと説明する文献もある。
いずれにせよ、犯罪不成立の理由明示は刑法の論理として必須であり、それは当該論点が検察官主張の公訴事実に含まれる事柄か被告人側から提起するべき事柄かという刑事訴訟法の適用に関わる問題でもある。撒骨だけの問題ではないが、議論を要する点である。
撒骨に関する言説の中には、犯罪構成要件の問題と違法性阻却の問題とを区別できていないものもある。不合格答案並の言説が定説化しないよう、明確な刑法解釈を確立しなければならない。刑法研究者不在のまま犯罪成否を論じる現状は、到底理解できないが、適切に発言していなかった刑法研究者の責任でもある。
[2] 拒絶および追慕の要否
従来から、葬送には「拒絶」と「追慕」との二面性があると論じられてきた。死体や骨を、生活圏外に移置して直接視認できないようにする拒絶、および、公然的施設で保存して礼拝対象にする追慕、の2個の要素は、伝統的葬法に内在している。
撒骨は、骨を生活圏外に移置するだけで、保存しない。追慕の意思があっても行為者の主観に留まり、骨の撒布という行為自体には追慕を表示する客観的要素が存在しない。客観的には追慕対象物を人為的に失わせる拒絶の要素しかない。骨の処理に困って墓の負担から逃げる意思でも、「自然に還す」といった美辞麗句で糊塗すれば、自己を欺罔する心理的弁明になる。
日本敗戦後に占領軍によって戦犯の名目で殺害された東条英機・元首相ほか数名の骨は、墓が軍国主義の聖地となることを阻止するべく太平洋で撒布された。死者の尊厳を否定する趣旨の撒骨が存在することを看過してはならない。葬送・追慕の意思でも、尊厳否定・追慕阻止の意思でも、骨の撒布という行為自体に違いはない。
撒骨とは逆に、手元供養には拒絶が存在せず、追慕だけである。撒骨も手元供養も、確立されてきた社会通念上の葬送が持っている2個の要素のうち1個を欠いている。だから、社会通念に適合する葬送と認め得るか否か、という議論を要するのである。
[3] 公衆・遺族・死者の関係
判例・通説によれば、死体等に対する罪の法益は公衆の感情を内容とする社会法益であって遺族の個人法益ではないが、遺族の葬祭権という概念は現に存在する。裏面的に葬祭義務も論じられるが、内容や権利義務者特定方法は不明確である。また、自分の死体の取扱方法を自己決定権として論じることが可能であり、死者を法益の主体とする説もある。
公衆・遺族・死者の間で一致した死体取扱なら問題ないとしても、異なっている場合にはどうするのか? 遺族間で意見が分かれたらどうするのか? 人権や祭祀承継との関係を含めて、議論を要する。
[4] 実定法との関係
船員法所定の水葬は措くとして、墓地、埋葬等に関する法律および行旅病人及行旅死亡人取扱法が予定している葬送は、墳墓・納骨堂を前提とする埋葬 (土葬)・火葬の2種類だけである。
故に、現行法上葬送と認め得るのはこの2種類だけだ、という解釈も可能である。このように解するなら、撒骨も手元供養も葬送ではないから遺骨に対する罪の構成要件に該当することになり、適法化のためには葬送以外の優越法益を以て違法性阻却を論じる他ない。
しかし、従来からの刑法解釈でも、葬送については「風俗」「社会通念」が論じられてきた。そこで、現行法上予定された葬送から外れる死体取扱でも、風俗・社会通念を根拠として葬送概念に含める解釈があり得る。かかる論理によって新たな葬法を葬送と認めることの可否が、議論するべき問題点である。
但し、社会通念上の葬送と認めても、法律上は条件や手続といった規制の不存在が問題として遺る。故に、社会通念上は葬送と認め得るが法律上の葬送とは認め得ない、という解釈もあり得る。現状のまま新たな葬法を適法な葬送と認めるなら、伝統的葬法は現行法によって様々な罰則付き規制を受けるのに、新たに思いついた葬法なら何の規制もなく好き放題に遂行できる、という著しい不均衡を生じる。
かかる観点から、新たな葬法を適法な葬送と認めるためには伝統的葬法と同様に罰則付き規制を含む法律の制定を要する、という見解もある。この点も含めて、実定法との関係を議論しなければならない。条例については別の問題もあるが、ここでは論及しない。
[5] 社会通念および適法評価偽装
撒骨を是認して実施する人が増加している今日では、撒骨が既に社会通念に適合する葬送として定着しているという評価も不可能ではない。撒骨推進論者はそのように主張すると推測できるし、検察官や裁判所がそのように解する可能性も否定できない。
しかし、駄文筆者は賛同できない。それは、営業的撒骨開始の際に「法務省の名義を冒用して国の容認を捏造した適法評価偽装」が行われたからである。議論の際には、まずこの事実が周知されなければならない。
撒骨に関する世論調査では、反対56.7%に対して賛成21.9%であり、実施希望者は賛成者中の41%に留まっていた。「撒骨否定」の社会通念を看取できる状況で、某法務官僚が「問題ない」という法解釈を不合理に断言し、撒骨推進団体主宰者等がこの個人的見解を「法務省の見解」「国の見解」といった偽名で喧伝した。
かかる経緯に鑑みれば、当該法務官僚も撒骨推進論者であり、世論の過半数を占める優勢な撒骨反対論を「誤った固定観念」のラベルで抑圧する手段として適法評価偽装が行われた、という嫌疑が払拭できない。墓埋法は撒骨を禁止していないという某厚生官僚の適切な発言も、墓埋法が撒骨を許容しているという論理飛躍に使用された。
この適法評価偽装は、適法性に疑問の余地がないとの誤信を蔓延させ、議論を封殺した。骨・墓からの逃避に対する規範的障碍が、錯誤や美辞麗句によって消去された。かかる詐称誘導による撒骨賛成増加を以て社会通念とすることは、不合理な既成事実の没論理的追認でしかない。騙され惑わされたままの人々の判断は、排斥されるべき迷妄であって、法適用の前提たるに値しない。
撒骨自体が許容可能であっても、適法評価偽装によって元々あった筈の社会通念を破壊して法適用の前提たるべき社会通念の形成を妨害したことは絶対に許容できない。駄文筆者は、これが撒骨に関する最大の問題点だと考えている。
議論も適法評価偽装もなく行われた日本初の心臓移植が患者死亡後に激烈な非難を惹起し、臓器移植法が脳死臨調等の議論を経て制定された、という歴史を失念してはならない。撒骨に関して司法判断や立法措置の前提たるべき真実の社会通念を形成するためには、正しい情報・理解に基づく賛否の議論を尽くすことが必要である。その前提として、虚偽・誤謬・妄説を人々の頭の中から一掃し、適法評価偽装に基づく虚構の社会通念を消滅させなければならない。
[6] その他の問題点
かつて炭鉱周辺では「ボタ山」が形成された。陸上撒骨を放置すると、何時の日か「骨山」が形成される可能性がある。骨灰で覆われた土地は他の用途に供し得ない。廃棄物処理法だけの問題ではない。墓地造成に環境破壊のラベルを貼って批判するなら、「骨山」も同じ批判の対象になる筈だ。「骨山」が実際に出現する前に検討しなければならない。
海洋撒骨についても、現行の海洋汚染防止法に留まらず、長期的視点から地球環境に対する影響如何を確認する必要がある筈だ。地球人類の骨が悉く海洋に撒布されるようになっても、影響は絶対にあり得ないのか? 駄文筆者はこの点に関して無知なので漠然たる危惧感を覚えるだけだが、正確かつ公正な専門的知見を以て検討しておくべきだと考える。
更に、宗教上の問題も極めて重要であるが、駄文筆者の能力を超えるので論及しない。「宗教 対 法律」では議論にならないのであって、両者の関係を明確化する必要があることだけを指摘しておく。
他にも問題点はあるが、これで撒骨ブログを一応の完結としておく。なお、今回まで連載した撒骨ブログには、愛知学院大学法学研究46巻2号ならびに月刊住職平成29年正月号・2月号および6月号の拙稿と重複する部分がある。
また、同じく月刊住職平成29年3月号・4月号に森謙二・茨城キリスト教大学教授の、同4月号・5月号に小谷みどり・第一生命経済研究所主任研究員の、葬送関係論稿が掲載されている。参照するべきだと思料されるので、紹介しておく。
(平29・9・29)
若干の私見を述べつつ、議論するべき問題点を指摘する。
[1] 犯罪概念中の位置付け
葬送が死体等に対する罪にならない理由は、伝統的葬法についても不明確である。私見としては、死因調査のための死体解剖や移植のための臓器摘出が死体損壊罪構成要件該当行為の違法性阻却であることと異なり、葬送なら同罪構成要件不該当だと解するが、火葬は違法性阻却だと説明する文献もある。
いずれにせよ、犯罪不成立の理由明示は刑法の論理として必須であり、それは当該論点が検察官主張の公訴事実に含まれる事柄か被告人側から提起するべき事柄かという刑事訴訟法の適用に関わる問題でもある。撒骨だけの問題ではないが、議論を要する点である。
撒骨に関する言説の中には、犯罪構成要件の問題と違法性阻却の問題とを区別できていないものもある。不合格答案並の言説が定説化しないよう、明確な刑法解釈を確立しなければならない。刑法研究者不在のまま犯罪成否を論じる現状は、到底理解できないが、適切に発言していなかった刑法研究者の責任でもある。
[2] 拒絶および追慕の要否
従来から、葬送には「拒絶」と「追慕」との二面性があると論じられてきた。死体や骨を、生活圏外に移置して直接視認できないようにする拒絶、および、公然的施設で保存して礼拝対象にする追慕、の2個の要素は、伝統的葬法に内在している。
撒骨は、骨を生活圏外に移置するだけで、保存しない。追慕の意思があっても行為者の主観に留まり、骨の撒布という行為自体には追慕を表示する客観的要素が存在しない。客観的には追慕対象物を人為的に失わせる拒絶の要素しかない。骨の処理に困って墓の負担から逃げる意思でも、「自然に還す」といった美辞麗句で糊塗すれば、自己を欺罔する心理的弁明になる。
日本敗戦後に占領軍によって戦犯の名目で殺害された東条英機・元首相ほか数名の骨は、墓が軍国主義の聖地となることを阻止するべく太平洋で撒布された。死者の尊厳を否定する趣旨の撒骨が存在することを看過してはならない。葬送・追慕の意思でも、尊厳否定・追慕阻止の意思でも、骨の撒布という行為自体に違いはない。
撒骨とは逆に、手元供養には拒絶が存在せず、追慕だけである。撒骨も手元供養も、確立されてきた社会通念上の葬送が持っている2個の要素のうち1個を欠いている。だから、社会通念に適合する葬送と認め得るか否か、という議論を要するのである。
[3] 公衆・遺族・死者の関係
判例・通説によれば、死体等に対する罪の法益は公衆の感情を内容とする社会法益であって遺族の個人法益ではないが、遺族の葬祭権という概念は現に存在する。裏面的に葬祭義務も論じられるが、内容や権利義務者特定方法は不明確である。また、自分の死体の取扱方法を自己決定権として論じることが可能であり、死者を法益の主体とする説もある。
公衆・遺族・死者の間で一致した死体取扱なら問題ないとしても、異なっている場合にはどうするのか? 遺族間で意見が分かれたらどうするのか? 人権や祭祀承継との関係を含めて、議論を要する。
[4] 実定法との関係
船員法所定の水葬は措くとして、墓地、埋葬等に関する法律および行旅病人及行旅死亡人取扱法が予定している葬送は、墳墓・納骨堂を前提とする埋葬 (土葬)・火葬の2種類だけである。
故に、現行法上葬送と認め得るのはこの2種類だけだ、という解釈も可能である。このように解するなら、撒骨も手元供養も葬送ではないから遺骨に対する罪の構成要件に該当することになり、適法化のためには葬送以外の優越法益を以て違法性阻却を論じる他ない。
しかし、従来からの刑法解釈でも、葬送については「風俗」「社会通念」が論じられてきた。そこで、現行法上予定された葬送から外れる死体取扱でも、風俗・社会通念を根拠として葬送概念に含める解釈があり得る。かかる論理によって新たな葬法を葬送と認めることの可否が、議論するべき問題点である。
但し、社会通念上の葬送と認めても、法律上は条件や手続といった規制の不存在が問題として遺る。故に、社会通念上は葬送と認め得るが法律上の葬送とは認め得ない、という解釈もあり得る。現状のまま新たな葬法を適法な葬送と認めるなら、伝統的葬法は現行法によって様々な罰則付き規制を受けるのに、新たに思いついた葬法なら何の規制もなく好き放題に遂行できる、という著しい不均衡を生じる。
かかる観点から、新たな葬法を適法な葬送と認めるためには伝統的葬法と同様に罰則付き規制を含む法律の制定を要する、という見解もある。この点も含めて、実定法との関係を議論しなければならない。条例については別の問題もあるが、ここでは論及しない。
[5] 社会通念および適法評価偽装
撒骨を是認して実施する人が増加している今日では、撒骨が既に社会通念に適合する葬送として定着しているという評価も不可能ではない。撒骨推進論者はそのように主張すると推測できるし、検察官や裁判所がそのように解する可能性も否定できない。
しかし、駄文筆者は賛同できない。それは、営業的撒骨開始の際に「法務省の名義を冒用して国の容認を捏造した適法評価偽装」が行われたからである。議論の際には、まずこの事実が周知されなければならない。
撒骨に関する世論調査では、反対56.7%に対して賛成21.9%であり、実施希望者は賛成者中の41%に留まっていた。「撒骨否定」の社会通念を看取できる状況で、某法務官僚が「問題ない」という法解釈を不合理に断言し、撒骨推進団体主宰者等がこの個人的見解を「法務省の見解」「国の見解」といった偽名で喧伝した。
かかる経緯に鑑みれば、当該法務官僚も撒骨推進論者であり、世論の過半数を占める優勢な撒骨反対論を「誤った固定観念」のラベルで抑圧する手段として適法評価偽装が行われた、という嫌疑が払拭できない。墓埋法は撒骨を禁止していないという某厚生官僚の適切な発言も、墓埋法が撒骨を許容しているという論理飛躍に使用された。
この適法評価偽装は、適法性に疑問の余地がないとの誤信を蔓延させ、議論を封殺した。骨・墓からの逃避に対する規範的障碍が、錯誤や美辞麗句によって消去された。かかる詐称誘導による撒骨賛成増加を以て社会通念とすることは、不合理な既成事実の没論理的追認でしかない。騙され惑わされたままの人々の判断は、排斥されるべき迷妄であって、法適用の前提たるに値しない。
撒骨自体が許容可能であっても、適法評価偽装によって元々あった筈の社会通念を破壊して法適用の前提たるべき社会通念の形成を妨害したことは絶対に許容できない。駄文筆者は、これが撒骨に関する最大の問題点だと考えている。
議論も適法評価偽装もなく行われた日本初の心臓移植が患者死亡後に激烈な非難を惹起し、臓器移植法が脳死臨調等の議論を経て制定された、という歴史を失念してはならない。撒骨に関して司法判断や立法措置の前提たるべき真実の社会通念を形成するためには、正しい情報・理解に基づく賛否の議論を尽くすことが必要である。その前提として、虚偽・誤謬・妄説を人々の頭の中から一掃し、適法評価偽装に基づく虚構の社会通念を消滅させなければならない。
[6] その他の問題点
かつて炭鉱周辺では「ボタ山」が形成された。陸上撒骨を放置すると、何時の日か「骨山」が形成される可能性がある。骨灰で覆われた土地は他の用途に供し得ない。廃棄物処理法だけの問題ではない。墓地造成に環境破壊のラベルを貼って批判するなら、「骨山」も同じ批判の対象になる筈だ。「骨山」が実際に出現する前に検討しなければならない。
海洋撒骨についても、現行の海洋汚染防止法に留まらず、長期的視点から地球環境に対する影響如何を確認する必要がある筈だ。地球人類の骨が悉く海洋に撒布されるようになっても、影響は絶対にあり得ないのか? 駄文筆者はこの点に関して無知なので漠然たる危惧感を覚えるだけだが、正確かつ公正な専門的知見を以て検討しておくべきだと考える。
更に、宗教上の問題も極めて重要であるが、駄文筆者の能力を超えるので論及しない。「宗教 対 法律」では議論にならないのであって、両者の関係を明確化する必要があることだけを指摘しておく。
他にも問題点はあるが、これで撒骨ブログを一応の完結としておく。なお、今回まで連載した撒骨ブログには、愛知学院大学法学研究46巻2号ならびに月刊住職平成29年正月号・2月号および6月号の拙稿と重複する部分がある。
また、同じく月刊住職平成29年3月号・4月号に森謙二・茨城キリスト教大学教授の、同4月号・5月号に小谷みどり・第一生命経済研究所主任研究員の、葬送関係論稿が掲載されている。参照するべきだと思料されるので、紹介しておく。
(平29・9・29)