撒骨 (散骨) 許容見解を法務官僚が否定![撒骨・その8・追加]
愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保
撒骨 (散骨) の適否について、「公式」にも「非公式」にも「法務省の見解」は存在しないという事実の確証として、愛知学院大学宗教法制研究所紀要58号 (平成30年3月) の拙稿刊行直前に得た情報を追加する。最近行われた言論機関からの照会への現職法務官僚回答である。
1つは、平成3年10月に報道された「節度を以て行われる限り問題ない」という見解の有効性に関する照会への
「そのような見解を出したことはない」
という回答である。『終活読本ソナエ』vol.8 (産経新聞出版、2015年春号) 21頁および同HPに記載されている。拙稿に引用するべき文献だが、原稿提出時には知らなかった。調査不足を恥じるしかないところである。
もう1つは、遺骨遺棄罪成否に関する照会への
「省としての公式見解はない」
という回答である。中日新聞平30・2・6朝刊38面および東京新聞平30・2・7朝刊28面に記載されている。これも拙稿に引用するべき文献だが、拙稿校正終了後の刊行であるため引用の機会が得られなかった。
平成3年10月に報道されて現在でも撒骨推進団体や撒骨業者によって喧伝されている撒骨 (散骨) 許容見解は、「法務省の見解」ではなく、「法務官僚1人の個人的見解」でしかない。これは拙稿以外にも複数の文献で指摘されているが、現職法務官僚も約四半世紀前の法務官僚発言を「法務省の見解」と認めていないことが明らかになった。国家機関による適法性確認が存在しないという事実の明白かつ強力な証拠である。「法務省の見解」の不存在が証明されると、撒骨推進団体や撒骨業者が論じる適法性確認済という主張の根拠は完全に消滅する。
これと同時に、概して「節度」として論じられる「粉末化せよ」とか「他人所有地は不可」とかいった話も無意味になる。例えば人を脅して金品を取得する行為については、強盗罪や恐喝罪として直ちに違法であって節度を論じる余地はなく、「1回5万円以下にせよ」とか「独居老人宅は不可」とかいった規制の問題にはならない。人骨撒布が葬送として許容可能であると論証されない限り、方法や場所を論じる余地はない。
現在のところ、撒骨推進団体や撒骨業者は依然として「法務省の見解」という架空の根拠に安住し、少なからざる人々がこのデマに惑わされて「確実に適法」「検討不要」と誤信していると推測される。これは早々に排斥されるべき迷妄である。日本国としての「正解」は未だ得られていない。それは、正しい情報および正しい論理に基づく賛否の議論を経て、これから創られるべきものである。「国の許容は存在しない」と正しく認識した上で、それでも「撒骨は許される」と判断するのか否か、という問題である。
虚偽・妄説から解放された多くの人々の熟慮こそが、法解釈の前提たる社会通念・風俗の基盤になる。この国の法を適切なものにするためには、多くの人々の真摯な検討が必要なのである。
節度とか粉末化・海洋とかいった話ではない。その前に、人骨撒布という行為自体がそもそも葬送として許容可能であるのか否か、という根本問題である。考えるべき事柄は、従前から葬送の内容とされてきた「追慕および拒絶」の要否、そして追慕については更に「公然的追慕対象物」の要否である。
加えて、遺骨遺棄罪は「社会法益」に対する罪であり、同罪成否の基準は「公衆の感情」を害するか否かである、という点を看過してはならない。「各個人の感情」は「公衆の感情」を認定する際の判断素材でしかない。だからこそ、多くの人々の意見表明が必要なのである。「私の感情に基づく行為を認めろ!」という主張は、現行法解釈論にならない。主張することは自由だが、立法政策論になるから、現行法の改正方法と伴に主張するべきである。
捏造された権威に盲従する思考放棄から脱却し、未解決問題としてゼロから出発しなければならない。そのためには、「法務省の見解」が虚偽であることの周知を図り、「国の許容」という蔓延した誤解を一掃しなければならない。本来は平成初期に行われるべき議論だった。適法評価偽装の前科者は、マイナスから出発しなければならない。
(平30・5・1)
撒骨 (散骨) の適否について、「公式」にも「非公式」にも「法務省の見解」は存在しないという事実の確証として、愛知学院大学宗教法制研究所紀要58号 (平成30年3月) の拙稿刊行直前に得た情報を追加する。最近行われた言論機関からの照会への現職法務官僚回答である。
1つは、平成3年10月に報道された「節度を以て行われる限り問題ない」という見解の有効性に関する照会への
「そのような見解を出したことはない」
という回答である。『終活読本ソナエ』vol.8 (産経新聞出版、2015年春号) 21頁および同HPに記載されている。拙稿に引用するべき文献だが、原稿提出時には知らなかった。調査不足を恥じるしかないところである。
もう1つは、遺骨遺棄罪成否に関する照会への
「省としての公式見解はない」
という回答である。中日新聞平30・2・6朝刊38面および東京新聞平30・2・7朝刊28面に記載されている。これも拙稿に引用するべき文献だが、拙稿校正終了後の刊行であるため引用の機会が得られなかった。
平成3年10月に報道されて現在でも撒骨推進団体や撒骨業者によって喧伝されている撒骨 (散骨) 許容見解は、「法務省の見解」ではなく、「法務官僚1人の個人的見解」でしかない。これは拙稿以外にも複数の文献で指摘されているが、現職法務官僚も約四半世紀前の法務官僚発言を「法務省の見解」と認めていないことが明らかになった。国家機関による適法性確認が存在しないという事実の明白かつ強力な証拠である。「法務省の見解」の不存在が証明されると、撒骨推進団体や撒骨業者が論じる適法性確認済という主張の根拠は完全に消滅する。
これと同時に、概して「節度」として論じられる「粉末化せよ」とか「他人所有地は不可」とかいった話も無意味になる。例えば人を脅して金品を取得する行為については、強盗罪や恐喝罪として直ちに違法であって節度を論じる余地はなく、「1回5万円以下にせよ」とか「独居老人宅は不可」とかいった規制の問題にはならない。人骨撒布が葬送として許容可能であると論証されない限り、方法や場所を論じる余地はない。
現在のところ、撒骨推進団体や撒骨業者は依然として「法務省の見解」という架空の根拠に安住し、少なからざる人々がこのデマに惑わされて「確実に適法」「検討不要」と誤信していると推測される。これは早々に排斥されるべき迷妄である。日本国としての「正解」は未だ得られていない。それは、正しい情報および正しい論理に基づく賛否の議論を経て、これから創られるべきものである。「国の許容は存在しない」と正しく認識した上で、それでも「撒骨は許される」と判断するのか否か、という問題である。
虚偽・妄説から解放された多くの人々の熟慮こそが、法解釈の前提たる社会通念・風俗の基盤になる。この国の法を適切なものにするためには、多くの人々の真摯な検討が必要なのである。
節度とか粉末化・海洋とかいった話ではない。その前に、人骨撒布という行為自体がそもそも葬送として許容可能であるのか否か、という根本問題である。考えるべき事柄は、従前から葬送の内容とされてきた「追慕および拒絶」の要否、そして追慕については更に「公然的追慕対象物」の要否である。
加えて、遺骨遺棄罪は「社会法益」に対する罪であり、同罪成否の基準は「公衆の感情」を害するか否かである、という点を看過してはならない。「各個人の感情」は「公衆の感情」を認定する際の判断素材でしかない。だからこそ、多くの人々の意見表明が必要なのである。「私の感情に基づく行為を認めろ!」という主張は、現行法解釈論にならない。主張することは自由だが、立法政策論になるから、現行法の改正方法と伴に主張するべきである。
捏造された権威に盲従する思考放棄から脱却し、未解決問題としてゼロから出発しなければならない。そのためには、「法務省の見解」が虚偽であることの周知を図り、「国の許容」という蔓延した誤解を一掃しなければならない。本来は平成初期に行われるべき議論だった。適法評価偽装の前科者は、マイナスから出発しなければならない。
(平30・5・1)