撒骨(散骨)が適法か違法かは未解決 [撒骨・その10・くどいけれど]
愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保
適法か違法かを国として決めるのは、まず法律である。土葬・火葬・水葬は、刑法190条の文言に該当するが、葬送として各種行政法に規定されているから、適法な葬送であって同条の罪にならないと認められる。しかし、撒骨については、適法か違法かを明示する法律の規定がない。
墓埋法に規定がないことを指摘しても、適法評価の論証にはならない。「明文の禁止がないから適法だ」も「明文の許容がないから違法だ」も、論理飛躍である。「明文の許容も禁止もないから適法でも違法でもない」という言説には、法的評価方法の誤謬もある。
法律の明文規定がない現状では、行政規制違反罪ではなく、刑法190条の「遺骨を遺棄した」に該当するか否を、法解釈として決する他ない。
法解釈を国として決めるのは、裁判所である。裁判所が法務省と異なる法解釈を採用したら、法務省の法解釈は裁判所の法解釈と異なるという理由だけで直ちに「誤った法解釈」として排斥される。
そして、撒骨の法的評価を判示した裁判所の判例は未だないから、現在の撒骨は「適法・違法の未確定」という灰色領域にある。反復になるが、「適法でも違法でもない灰色」ではない。真実は「適法だ」か「違法だ」かのどちらかなのだが、その真実つまり「裁判所の採用する法解釈」がどちらなのか「未だ判らない」という意味の灰色なのである。
行政官庁の行政解釈も裁判所が否定しない限り国の有権的法解釈だが、それは職務遂行上の法解釈である。所謂「法務省見解」が「行政解釈」だという言説は、当該法解釈提示が法務省の職務に属さないことを看過している。規制しないことは「黙認」だという言説は、法務省に規制権限がないことを看過している。どちらも、職務権限の知識を欠く誤謬である。
所謂「法務省見解」の実体は「某法務官僚の個人的見解」でしかなく、公式にも非公式にも「法務省の」見解は存在しない。この事実は、何度も述べた。撒骨の法的評価は、行政上も灰色なのである。
付言すれば、「法務省見解の不存在」という事実についても、法務省として国民・住民に通知する権限はない。だから、照会があれば職員が口頭で「存在しない」旨を述べる、という事実上の対応に留まるのである。
このように、司法上も行政上も撒骨に関する国の有権的法解釈がない現状では、撒骨適法説論者自身が適法評価論証を確立しなければならない。
撒骨に関する適法評価論証のためには、人骨撒布という行為が当罰的法益侵害を生じない旨の刑法解釈論が必要である。
論題は現在の日本の法規範だから、大昔の話や外国の話は根拠にならない。「葬送として行えば適法だ」という言説は、適法な葬送と認め得るか否かという問題への解答にならない。「節度」「マナー」は、犯罪成否判断基準としての用をなさない。「粉末化」「海洋」も、犯罪成立要件との関係を示さなければ犯罪不成立の理由にならない。遺灰を遺骨概念から排除する言説は、刑法解釈論として通用しない。火葬場残骨灰が遺骨に該当しない旨の判例は、拾収した遺骨の撒布に対する法的評価と関係ない。
現時点で、刑法解釈論として成立可能な適法評価論証は見当たらない。適法評価の根拠を示し得ないまま、「人権」の看板や「法務省が認めた」という虚偽に依拠しているのが、撒骨適法説の現状である。
以上の通り、撒骨が適法か違法かは、あらゆる意味で未解決である。
(令元・5・23)
適法か違法かを国として決めるのは、まず法律である。土葬・火葬・水葬は、刑法190条の文言に該当するが、葬送として各種行政法に規定されているから、適法な葬送であって同条の罪にならないと認められる。しかし、撒骨については、適法か違法かを明示する法律の規定がない。
墓埋法に規定がないことを指摘しても、適法評価の論証にはならない。「明文の禁止がないから適法だ」も「明文の許容がないから違法だ」も、論理飛躍である。「明文の許容も禁止もないから適法でも違法でもない」という言説には、法的評価方法の誤謬もある。
法律の明文規定がない現状では、行政規制違反罪ではなく、刑法190条の「遺骨を遺棄した」に該当するか否を、法解釈として決する他ない。
法解釈を国として決めるのは、裁判所である。裁判所が法務省と異なる法解釈を採用したら、法務省の法解釈は裁判所の法解釈と異なるという理由だけで直ちに「誤った法解釈」として排斥される。
そして、撒骨の法的評価を判示した裁判所の判例は未だないから、現在の撒骨は「適法・違法の未確定」という灰色領域にある。反復になるが、「適法でも違法でもない灰色」ではない。真実は「適法だ」か「違法だ」かのどちらかなのだが、その真実つまり「裁判所の採用する法解釈」がどちらなのか「未だ判らない」という意味の灰色なのである。
行政官庁の行政解釈も裁判所が否定しない限り国の有権的法解釈だが、それは職務遂行上の法解釈である。所謂「法務省見解」が「行政解釈」だという言説は、当該法解釈提示が法務省の職務に属さないことを看過している。規制しないことは「黙認」だという言説は、法務省に規制権限がないことを看過している。どちらも、職務権限の知識を欠く誤謬である。
所謂「法務省見解」の実体は「某法務官僚の個人的見解」でしかなく、公式にも非公式にも「法務省の」見解は存在しない。この事実は、何度も述べた。撒骨の法的評価は、行政上も灰色なのである。
付言すれば、「法務省見解の不存在」という事実についても、法務省として国民・住民に通知する権限はない。だから、照会があれば職員が口頭で「存在しない」旨を述べる、という事実上の対応に留まるのである。
このように、司法上も行政上も撒骨に関する国の有権的法解釈がない現状では、撒骨適法説論者自身が適法評価論証を確立しなければならない。
撒骨に関する適法評価論証のためには、人骨撒布という行為が当罰的法益侵害を生じない旨の刑法解釈論が必要である。
論題は現在の日本の法規範だから、大昔の話や外国の話は根拠にならない。「葬送として行えば適法だ」という言説は、適法な葬送と認め得るか否かという問題への解答にならない。「節度」「マナー」は、犯罪成否判断基準としての用をなさない。「粉末化」「海洋」も、犯罪成立要件との関係を示さなければ犯罪不成立の理由にならない。遺灰を遺骨概念から排除する言説は、刑法解釈論として通用しない。火葬場残骨灰が遺骨に該当しない旨の判例は、拾収した遺骨の撒布に対する法的評価と関係ない。
現時点で、刑法解釈論として成立可能な適法評価論証は見当たらない。適法評価の根拠を示し得ないまま、「人権」の看板や「法務省が認めた」という虚偽に依拠しているのが、撒骨適法説の現状である。
以上の通り、撒骨が適法か違法かは、あらゆる意味で未解決である。
(令元・5・23)