確信犯の意味 [ではない]
愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保
令和元年の刑法学会で或る研究報告の中に「確信犯、常習犯、激情犯」には「違法性の意識がない」という表現があり、やや気になった。
「確信犯に違法性の意識はあるのか?」は、古典的議論である。直接の論点は「違法性の意識」であって「確信犯の意味」ではないが、誤解回避のために書いておく。平成29年2月法科大学院HP掲載・同年5月法務支援センターHP転載のブログ「言葉・文化⑵」に書いた「確信犯」の駄文を含めて、過去の確信犯ブログと重複する点がある。
違法性の意識は、「いけないことだから、止めよう」という判断に繋がる意識として論じられる。これが反対動機の形成であり、かつての通説は反対動機の抑圧による遂行の決意が責任非難の根拠だと解していた。
然るに、これは行為者自身の規範意識に基づく内心的事象であり、本人が本心から「いけないことだ」と思っている場合の話である。現行法上の違法性を意識すれば反対動機が形成される、という論理は、現行法の規範が行為者を律することを前提としている。大多数の普通の人々は、そうかもしれない。
だが、確信犯を律するのは、「あるべき法」や「神の御心」といった、現行法と相容れない規範的確信である。現行法の規範を拒絶する人もいる。従って、「現行法に反する」と意識しても、反対動機が形成されないことがある。反対動機の形成がなければ反対動機の抑圧もないから、かつての通説では責任非難の根拠を論証できない。そこで、責任非難の根拠にならない意識を論じても意味がなく、かかる確信犯にとって「現行法に反する」という意識は責任非難の根拠たるべき「違法性の意識」ではない、という所説もあった。。
冒頭の表現はこの趣旨による。当該表現中の「違法性の意識」という言葉の意味は「反対動機の形成をもたらす意識」であり、意識の内容は必ずしも「現行法に反する」ではない。「行為者自身の信じる規範に反しない」ことを、「違法性の意識がない」と表現しているのである。過去の確信犯ブログで何度も述べた「2個の規範」に関わる話である。
「2個の規範」や通常と異なる「違法性の意識」の意味を知らないまま「確信犯には違法性の意識がない」という表現に接すると、「確信犯」の語を以て「現行法に反しない」と信じる「違法性の錯誤」を認識する誤謬に陥る虞がある。現に、「確信犯の正しい意味」と称して「違法性の錯誤」に当たる事柄を述べる言説が存在する。現行法違反と知りつつ敢えて遂行する「動機の崇高」が確信犯概念の存在理由であることを看過している。刑事法学の観点からは明白な誤謬だが、日本語として誤用か新語義かは駄文筆者の判断し得るところではない。
常習犯は、規範意識鈍麻の故に、違法性を意識しても反対動機が形成されない。激情犯は、反対動機の形成前に遂行してしまった場合である。これらも、反対動機の抑圧が存在しないから、前記と同様の問題になる。
反対動機の抑圧が責任非難の根拠だというかつての通説にとって、これらの行為者に対する責任非難の根拠は深刻な問題だった。しかし、今日の通説は、反対動機の形成が可能であれば反対動機の不形成も責任非難の根拠になると解している。これで前記の問題は解消され、「違法性の意識」を通常と異なる意味で使用する必然性はなくなった。このような表現は、誤謬ではないとしても、適切性に疑問の余地があり得る。
(令2・3・31)
令和元年の刑法学会で或る研究報告の中に「確信犯、常習犯、激情犯」には「違法性の意識がない」という表現があり、やや気になった。
「確信犯に違法性の意識はあるのか?」は、古典的議論である。直接の論点は「違法性の意識」であって「確信犯の意味」ではないが、誤解回避のために書いておく。平成29年2月法科大学院HP掲載・同年5月法務支援センターHP転載のブログ「言葉・文化⑵」に書いた「確信犯」の駄文を含めて、過去の確信犯ブログと重複する点がある。
違法性の意識は、「いけないことだから、止めよう」という判断に繋がる意識として論じられる。これが反対動機の形成であり、かつての通説は反対動機の抑圧による遂行の決意が責任非難の根拠だと解していた。
然るに、これは行為者自身の規範意識に基づく内心的事象であり、本人が本心から「いけないことだ」と思っている場合の話である。現行法上の違法性を意識すれば反対動機が形成される、という論理は、現行法の規範が行為者を律することを前提としている。大多数の普通の人々は、そうかもしれない。
だが、確信犯を律するのは、「あるべき法」や「神の御心」といった、現行法と相容れない規範的確信である。現行法の規範を拒絶する人もいる。従って、「現行法に反する」と意識しても、反対動機が形成されないことがある。反対動機の形成がなければ反対動機の抑圧もないから、かつての通説では責任非難の根拠を論証できない。そこで、責任非難の根拠にならない意識を論じても意味がなく、かかる確信犯にとって「現行法に反する」という意識は責任非難の根拠たるべき「違法性の意識」ではない、という所説もあった。。
冒頭の表現はこの趣旨による。当該表現中の「違法性の意識」という言葉の意味は「反対動機の形成をもたらす意識」であり、意識の内容は必ずしも「現行法に反する」ではない。「行為者自身の信じる規範に反しない」ことを、「違法性の意識がない」と表現しているのである。過去の確信犯ブログで何度も述べた「2個の規範」に関わる話である。
「2個の規範」や通常と異なる「違法性の意識」の意味を知らないまま「確信犯には違法性の意識がない」という表現に接すると、「確信犯」の語を以て「現行法に反しない」と信じる「違法性の錯誤」を認識する誤謬に陥る虞がある。現に、「確信犯の正しい意味」と称して「違法性の錯誤」に当たる事柄を述べる言説が存在する。現行法違反と知りつつ敢えて遂行する「動機の崇高」が確信犯概念の存在理由であることを看過している。刑事法学の観点からは明白な誤謬だが、日本語として誤用か新語義かは駄文筆者の判断し得るところではない。
常習犯は、規範意識鈍麻の故に、違法性を意識しても反対動機が形成されない。激情犯は、反対動機の形成前に遂行してしまった場合である。これらも、反対動機の抑圧が存在しないから、前記と同様の問題になる。
反対動機の抑圧が責任非難の根拠だというかつての通説にとって、これらの行為者に対する責任非難の根拠は深刻な問題だった。しかし、今日の通説は、反対動機の形成が可能であれば反対動機の不形成も責任非難の根拠になると解している。これで前記の問題は解消され、「違法性の意識」を通常と異なる意味で使用する必然性はなくなった。このような表現は、誤謬ではないとしても、適切性に疑問の余地があり得る。
(令2・3・31)