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刑法改正で確信犯が消滅する?


愛知学院大学名誉教授 原田 保
 刑法の一部を改正する令和4年法律67号は、拘留・科料だけだった侮辱罪に1年以下の懲役・禁錮を追加する重罰化および懲役・禁錮の区別を廃止して「拘禁刑」に纏める自由刑単一化を規定している。自由刑の区別・単一は確信犯と関わるので、少し述べておく。過去の確信犯ブログとの重複を御容赦頂きたい。
 作業義務のある懲役と作業義務のない禁錮との区別は、犯罪の動機に基づく処遇の区別である。通常の犯罪は、私利私欲のために他人の権利を侵害する行為である。動機が破廉恥だと評価されて「破廉恥罪」という名称が付される。これに対して、「世のため人のため」とか「神の御心」とかいった「崇高な動機」から敢えて国の法律に逆らう行為者には、そのような破廉恥な動機がない。これが確信犯であり、通常の「破廉恥罪」と区別して「非破廉恥罪」と呼ばれる。捨て石・殉教者として処罰・殺害される可能性を覚悟していた犯罪者を通常の犯罪者と同様に処罰しても無意味であり、むしろ敬意を以て接するべきだと考えられていた。だから、作業を強制せず拘禁するだけにしたのである。確信犯は「道義的に国家と対等」という評価や作業義務のない拘禁を「名誉拘禁」と呼ぶ用語例もある。
 これが、19世紀末頃の思想であった。日本でも、確信犯の典型たる内乱罪の自由刑は禁錮だけであり、公務執行妨害罪や礼拝所不敬罪のように確信犯の場合と怨恨等の私的動機の場合とがあり得る犯罪は懲役・禁錮の選択刑である。更に、過失犯も、権利侵害の認識がないから破廉恥な動機によるものではないと評価され、確信犯と並んで非破廉恥罪として懲役を科さないこととされていた。禁錮は、専ら確信犯・過失犯の刑なのである。
 しかし、確信犯尊重思想は第二次世界大戦頃から衰え、幾つかの国では確信犯を反逆者として通常の犯罪者よりも厳しく処罰するようになった。過失犯も、自動車の増加と共に故意犯に近い悪質な事故が増加し、過失犯だから非破廉恥罪だという評価を貫徹することが困難になったため、過失犯の一部には懲役も規定され、懲役か禁錮かを事案毎に選択する制度に変更された。そして、懲役・禁錮の区別に関する行刑実務の問題もあった。禁錮受刑者の大部分は請願作業に従事しており、実態は懲役と大差ないのに、刑種の相違から様々な区別を要する。作業は、刑種に基づく義務の有無ではなく、受刑者毎に適否を判断するべきだという見解もあった。
 このような経緯があって、多くの国は自由刑を単一化した。日本も漸く単一化を決断したのである。確信犯のために設けられた制度の廃止は、確信犯という概念が実定法上不要になることを意味する。その意味で、自由刑単一化と共に確信犯は消滅する。
 でも、現象は消滅せず、刑法無視の言説は存続するだろう。確信犯は、国の法律によれば悪い、自己の確信によれば正しい、という2個の評価規範の双方を受容した上で、国の法律に基づく「遂行するな」と自己の確信に基づく「遂行せよ」との2個の決定規範に直面して後者を選択したのである。かつての刑法学者は、決定規範に関わる動機を要素として確信犯概念を提示し、「正しい」という評価規範に関わる言葉を使用しなかった。誰かが「正しい」という言葉を使用し、確信犯の「正しい」は自己の確信によることを看過した人がこれを「国の法律によれば正しい」という意味だと誤解した。ここから「違法性の錯誤」を「確信犯」と呼ぶ誤用が発生し、「正しいと信じて」と「悪いと知りながら」とが逆の意味だという誤解に繋がって、「どちらが本当の意味か」という無意味な議論が発生した。
 誤解の発端が誰か、違法性の錯誤との混同が依然として誤用か既に新用法か、駄文筆者には判らない。この点は、国語学者に期待する他ない。
(令4・12・16)