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「別府大仏」追加調査報告


愛知学院大学 名誉教授・弁護士 原田 保
 

 別府大仏につき、愛知学院大学宗教法制研究所紀要62号(令4)29頁で論文を発表したが、その後に知った事実を書いておく。
★ 別府大仏の人気(月刊住職令和6年5月号90頁、92頁参照)
 安部登『世界一温泉府大別府案内』(南郷山荘、昭12)71頁には、別府大仏境内の雑踏を撮影した写真が掲載されている。しかし、撮影年月日は不明であり、同様の雑踏を撮影した写真は他に見当たらない。
 そして、追加調査の過程で、別府大仏の人気に関する情報を得た。豊州新報昭5・6・12夕刊(別府市立図書館DBの表記は「朝刊」)2頁に、別府八景の人気投票が掲載されている。別府大仏は、218万0112票中14票で、94景中54位である。観覧反復を想像できる数値ではない。前記写真は建立直後のもので、当初の人気は継続していなかったと推測できる。
★ 宝持寺の現状(令和6年9月に現地で確認)
 別府大仏管理寺院として昭和2年に誘致された宝持寺は、平成元年に別府大仏が解体撤去された後も同じ場所で存続していた。平成4年に新築された書院の玄関灯には「宝持寺」と表記されていた。
 駄文筆者が令和4年10月に訪れた際にはこの状態であったが、その後に変化があった。本堂では、別府大仏原型像安置および戦没者遺影貼付は従前同様だが、外壁に大きな文字で「納骨堂」と表記された。書院では、玄関灯の「宝持寺」表記が消去され、外壁に大きな文字で「崇福寺別院」と表記された。崇福寺は、平成31年3月に就任した宝持寺兼務住職の本務寺である。時期等は未確認だが、宝持寺は廃寺になり、宗教法人は解散して土地・建物の所有権は崇福寺に移転したと推測される。
 併せて、未解決の疑問についても書いておく。
★ 宗派・寺院の名称
 「臨済宗妙心寺派宝持寺」を誘致しながら「別府市仏心宗信栄寺」を標榜したのは何故か。別府大仏建立者僧名「栄信」の文字を使用しながら字順を逆にしたのは何故か。依然として、情報は得られていない。
 なお、「宝持寺」「信栄寺」の名称併存は別府大仏解体撤去後に別の寺院が移転してきたという誤解を生じたが、前記の通り「崇福寺」というまた別の寺院名が表記されたことから更なる誤解・混乱が予測される。
★堂宇建築の有無
 別府市教育会編『別府市誌』(同、昭8)42頁には別府大仏建立者が本堂・茶堂・庫裡・山門を建築して宝持寺に寄附した旨の記載があるが、写真で確認できるのは茶堂・寺務局・休憩所だけである。本堂は茶堂の転用であり、庫裡は寺務局かもしれない。しかし、山門は、追加情報が得られず、確認も推測もできない。新聞記事を探しているが、未だ見当たらない。
★ 阿弥陀如来という認識の理由
 別府大仏が釈迦如来であることは、昭和時代の資料が揃って記載しているところであり、印相が法界定印であることとも符合する。
 ところが、平成時代に、別府大仏は阿弥陀如来である旨のインターネット情報が流布された。寺院も行政機関も管理者も釈迦如来だと記載していたのに、印相が九品印ではないのに、誰が如何なる理由で阿弥陀如来だと断言したのか、駄文筆者は未だ確実な情報に接していない。若干の推測に繋がる情報は存在するが、根拠薄弱な推測は書かない。
★ 跡地に建立された「別府大仏体内之諸霊位」石塔の内部
 別府大仏の人骨混入瓦礫が収蔵されたか否かは、瓦礫廃棄の法的評価方法に関わるが、依然として情報を得られないままである。今のところ、如何ともし難い。
(令6・10・21)