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刑事司法実務における確信犯の取扱


愛知学院大学名誉教授・弁護士 原田保

 確信犯という概念は、「世のため人のため」とか「神の御心」とかいった「公益的義務感」という動機を要件とし、刑は「懲役ではなく禁錮」、つまり「作業義務を課さない」という「優遇」を効果として予定していた。しかし、日本の刑法はそのような要件・効果を規定せず、確信犯があり得る犯罪に禁錮を規定するに留まった。
 例えば、公務執行妨害罪は政治的確信犯として遂行されることがあり、礼拝所不敬罪は宗教的確信犯の可能性がある。しかし、どちらも、公益的義務感とは無関係に怨恨等の私的動機から遂行されることもあり得る。これらの犯罪に懲役・禁錮の選択刑を規定したのは、双方の場合があり得るという判断に基づき、事案毎に動機の如何による刑種選択を予定していたからに他ならない。
 しかし、日本の刑事司法実務は、この制度趣旨に沿う結論を示していない。司法統計年報によれば、昭和43年~昭和47年に公務執行妨害罪で第一審有罪判決を受けた2959人のうち、禁錮に処せられたのは僅か12人である。同罪と共に傷害罪等も成立していれば禁錮はあり得ないが、そのような別罪のない行為者が12人に留まるとは考え難い。所謂「過激派」と警察機動隊との衝突が頻発した「70年安保」前後5年間の公務執行妨害罪であるから、相当数が政治的確信犯であったと推測されるが、その殆どが禁錮ではなく懲役に処せられたのである。更に、昭和45年11月25日の三島事件も明白な政治的確信犯であったが、同事件に関する東京地判昭47・4・27は、割腹自決の介錯に係る嘱託殺人罪についてすら、禁錮ではなく懲役を選択している。
 かかる実態に鑑みれば、動機に基づく「確信犯は禁錮」という刑種選択は殆ど行われていなかったと判断せざるを得ない。懲役・禁錮を区別する趣旨が無視されており、理論と実務とが完全に乖離している。
 このような実務を可能にしたのは、刑種選択基準規定の不存在である。動機を考慮せよという規定がないから、動機を無視しても法令違反にならない。だから、動機を認定する必要がない。それは即ち、確信犯であるか否かの判断が必須ではなく、確信犯に言及する必要がない、ということである。筑紫詩文(筑紫女学園大学日本語・日本文学科)26号(令元)13頁には確信犯という言葉を使用した裁判が少ない旨の指摘があるところ、この指摘は、刑種選択に関する前記統計数値等と並んで、日本の刑事司法実務が確信犯を無視しているという事実の証明に他ならず、周到な調査に敬意を表するべきところである。
 このように、ドイツの刑法学者が提唱した確信犯を、日本の刑事司法実務は無視してきた。それは、確信犯優遇思想が衰退した、あるいし定着しなかった、という事実を示すものである。
 確信犯優遇思想については、背景にある価値相対主義と関連すると思われるところ、この点の分析には思想史・政治史の知識を要する筈である。駄文筆者の能力を超えるので、論及は避ける。また、確信犯という言葉の意味について、「正しいと信じて」が正解だという論点齟齬の言説が刑事司法実務の確信犯無視と関係を有するか否かも検討の価値があると思われるが、これは日本語学・国語学の領域である。やはり駄文筆者の能力を超えるので、論及しない。どちらの点についても、関係分野の学識を有する方々による御研究を期待するところである。
 なお、平30・3・29ブログ(ブログ集vol.1(平31)64頁)で述べたように、交通事故関係過失犯では懲役か禁錮かを道路交通法違反訴因の有無で決める実務慣行が存在する由である。動機考慮とは認め難い。
(令7・11・30)