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汽車


愛知学院大学名誉教授・弁護士 原田保

 日本語の「汽車」とは、もともと、蒸気機関車牽引鉄道車輛のことですが、人々が使用する言葉は様々です。私の母(大正14年生)は、新幹線のことも「汽車」と呼んでいました。今回は、この言葉の話です。
 刑法で、「汽車」は108条の現住建造物等放火罪および125条以下の往来妨害罪に規定されていますが、若干の問題があります。
 まず、放火罪の客体に関する問題です。108条の現住建造物窓放火罪の客体は「建造物、汽車、電車、艦船、鉱坑」ですが、これより軽い109条の非現住建造物等放火罪の客体は「建造物、艦船、鉱坑」だけです。109条に「汽車、電車」は規定されていません。無人の汽車、電車に放火した場合は、更に軽い110条の建造物等以外放火罪になります。旧刑法の放火罪では405条に有人の汽車と無人の汽車との双方が規定されていたのに、現行刑法の放火罪では無人の汽車、電車が規定されなかったのです。その理由は、註釈書等にも説明が見当たらず、よく判りません。
 次に、「汽車」という言葉の解釈に関する問題です。現行刑法制定当時の状況として、石油燃料鉄道車輛は開発中で実用化前でした。帝国議会で現行刑法制定のための審議が行われた際に、将来実用化される石油燃料鉄道車輛が放火罪の客体にならない可能性について質問があり、政府委員はそれも汽車であると答弁しました。そして、実際に事件が起きました。ガソリンエンジン鉄道車輛を転覆させた「ガソリンカー事件」です。列車転覆による被害は動力の如何と関係ありませんが、刑法にガソリンカーは規定されていません。大審院はガソリンカーも汽車に該当するという解釈を示して前記政府委員答弁を踏襲しましたが、文言逸脱の罪刑法定主義違反だという批判も有力です。
 問題の根源は、法律が社会の実情に対応していない点にあります。現行刑法が制定された明治40年には存在しなかった交通機関が依然として明記されていないため、ガソリンカー事件のような問題が起こるのです。現行刑法の放火罪・往来妨害罪には、バスもロープウェイも航空機も、規定されていません。汽車電車転覆罪や艦船覆没罪はあるのに、航空機墜落罪はありません。
 航空機が刑法に初めて規定されたのは昭和29年ですが、日本国外にある日本船舶を日本刑法の適用対象とする1条2項に日本航空機を追加しただけで、放火罪・往来妨害罪は放置されました。昭和49年の改正刑法草案は当時存在していた交通機関を全部規定していましたが、国会に提出されることなく放置されました。その後も刑法は多数回に亘って改正されましたが、交通機関の追加に関する改正の動向は見当たりません。法務官僚も、国会議員も、関心を抱いていないようです。
 法律と関係ない話ですが、「分れの朝」「喝采」「心の旅」「なごり雪」等の歌詞にも「汽車」という言葉があります。本来の「汽車」が絶滅危惧状態になった後の歌ですから、昔の出来事か、本当は「電車」だけれど敢えて「汽車」と表現したか、どちらかであると思われます。作詞者の意図は知りませんが、これらの歌詞を「電車」に替えたら、雰囲気がかなり違ってきます。「汽車」という言葉は、様々な意味を担っているのですね。

(AGULS106号(2026/05/25)掲載)