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言葉・文化 ⑵


 約5年前に書いたブログの続きを書く。生きていればまだ続けるかもしれない。
                                         愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保

・直葬
 「ちょくそう」と読んで、人が死亡した場合に葬儀を行うことなく火葬場に直行して死体を焼く方法を指す言葉として使用例がある。この言葉に対する批判である。宗教法学会で某教授から聞いた話だが、駄文筆者も賛同するので、紹介しておく。
 批判の理由は、同じ文字で「じきそう」と読んで意味の異なる言葉が昔から使用されていることである。「じきそう」とは、古代墳墓で石室を設けることなく棺を土中に直接埋める方法であり、儀式の有無とは関係ない。今日まだ一部地域に残る土葬も、墳墓内で棺の周囲に空間がない点では「じきそう」であると言える。
 発音が異なっていても、同じ文字に異なる意味を持たせることは、可能な限り回避するべきである。「ちょくそう」という言葉を使用している人々が「じきそう」という言葉の存在を知っているのか否か、駄文筆者には判らないが、いずれにしても、「じきそう」という言葉が昔から使用されてきた実績があるのだから、新参者の「ちょくそう」は遠慮するべきである。
 儀式なしの葬送については「略式葬」と呼ぶべきだ、というのが前記教授の所説であり、駄文筆者はこれにも賛同する。

・確信犯
 司法試験で出題されることはないだろうが、刑法の話である。正確に理解されていない様子が見受けられるので、述べておく。
 過日に某TV番組で、
A 自分の行為が正しいと確信している
B 自分の行為が犯罪だと確信している
という選択肢で、どちらが確信犯の正しい定義か?と質問していた。番組ではAが正解だとされていたが、不正確である。
 また、中日新聞平28・9・22朝刊29面で文化庁による国語関係世論調査結果が報じられ、確信犯の意味につき、
(ア) 政治的・宗教的などの信念に基づいて正しいと信じてなされる行為・
   犯罪またはその行為を行う人
(イ) 悪いことだと分かっていながらなされる行為・犯罪またはその行為を
   行う人
という選択肢で、(ア) が正解とされていた。これも不正確である。
 確信犯の議論は、ハンガリーの著名な音楽家リスト・フェレンツのドイツ語名と同名の従弟であるドイツの著名な刑法学者フランツ・リストが19世紀末に「確信に対する忠実」に基づく犯罪は特殊な範疇に属する旨を論じたことに始まると言われている。欧州各国の刑法学者の間で客観的行為と主観的動機とのどちらを以て政治犯を把握するべきかという議論があり、リストは政治に限定することなく主観的動機を論じたのである。確信犯 Überzeugungsverbrechen という言葉は、このような議論を経て、ドイツの著名な刑法学者・法哲学者グスタフ・ラートブルフが20世紀初期に創唱したと言われており、その頃から一般的に承認されていた定義は「政治、宗教等の確信に基づいて行われる犯罪」である。
 かかる議論の経緯に鑑みれば、「確信」が単純に「正しいと信じる」に留まるものではないことが判る。自分の確信が現行法と相容れないものであり、自分の行為が現行法によって違法評価されることは判っているが、それでも遂行しなければならない、という義務感を導くものとして提示されていた。「確信に基づいて」という言葉はこのような意味で使用されており、確信犯の概念には一般的定義に明記されていない要素が存在するのである。この点が、しばしば看過されている。
 「私の行為は正しい」と非常識なことを言い張るだけで確信犯と呼ぶ例もままあるが、概して誤用である。「現行法上の違法性の意識」を欠くと、現行法と相容れない確信は違法性の錯誤に他ならず、確信犯の概念から外れる。また、素行不良者が悪い犯罪行為だと判っていながら平気で遂行するのも、確信犯ではない。現行法上の違法性の意識があっても動機の点で「現行法と相容れない確信に基づく義務の遂行」を欠くと、規範意識鈍麻でしかない。
 TV番組のAや文化庁調査の (ア) は、確信犯の一般的定義に近い。しかし、Bの「犯罪」や(イ)の「悪い」は、行為者自身がそのように評価しているという意味なのか、国がそのように評価していることを行為者が知っているという意味なのか、判別し難いが、どちらにしても異なる定義として対置する点に問題がある。行為者自身の評価なら、それは違法性の意識に他ならないから、異なる定義として対置されたAや(ア)は行為者に違法性の意識がないという意味になり、国の評価に関する行為者の認識という要素が欠落して、単なる違法性の錯誤でしかなくなる。国の違法評価に関する行為者の認識を意味するなら、それは確信犯概念の要素であるから、Bも(イ)も誤答ではなく確信犯の説明の一部であることになる。
 このように、TV番組も文花庁調査も、確信犯の一般的定義に沿う意図でAや(ア)を提示したと推測されるが、Bや(イ)を異なる定義として対置したことから、不正確なものになっている。文化庁調査には更に(ウ)として「(ア) と (イ) の両方」という選択肢があり、「両方」の意味が判然としないが、行為者自身の確信と国の評価に対する認識との両方の要素を備えたものという意味に理解することも可能であり、そのように理解するなら、これが正解であることになる。
 確信犯については、「懲役ではなく禁錮」といった処遇方法が主に論じられていたが、刑事政策だけでなく刑法解釈の問題もある。
 責任論において、違法性の意識が規範的障碍の前提とされる。しかし、個々人の規範的障碍は、本人の規範意識に基づいて生じる。つまり、本人が本心から「いけないことだ」と思っていなければ、規範的障碍は生じない。国の正しい法解釈に基づく違法評価を意識することが行為者の規範的障碍に繋がるという論理は、国の評価基準と行為者の評価基準との一致を前提としている。確信犯の場合、評価基準が異なっているから、現行法上の違法性を意識しても行為者自身の規範的障碍にならないことがある。それ故に、「今ある法」に違反するが「あるべき法」に適合すると確信している行為者について、規範的障碍にならない現行法上の違法性の意識が責任非難の根拠たり得るのか、責任非難の根拠としての違法性の意識やその可能性があると認め得るのか、また、現行法上の違法行為を義務付けられていると確信している行為者に適法行為の期待可能性があるのか、という問題が提起されることになる。
 議論の内容を含めて、正しい理解の普及を念願する。

・代理処罰
 これも刑法の話である。日本で罪を犯した外国人が逃亡して自国に帰国した場合、捜査情報が日本から犯人の自国に提供されて犯人が犯人の自国で処罰されることがある。これを「代理処罰」と呼ぶ例があるが、語義としておかしい。
 「代理」の語義に基づけば、犯人の自国での処罰は外国が日本の刑罰権を日本に代って日本のために行使するものであることになる。それは違う。日本刑法2条~4条の2のような国外犯処罰規定は他の国にもあり、この処罰は当該外国がその国の国外犯処罰規定に基づいてその国の刑罰権を行使するものである。日本法に基づく日本の刑罰権とは関係ない。日本法上の犯罪でも、当該外国では罪にならない場合や当該外国の国外犯処罰対象でない場合には、当該外国での処罰はあり得ない。冒頭設例は、あくまで「その国自身」の「国外犯処罰」であり、凡そ「代理」ではない。これを「代理」と呼ぶのは、国家主権に対する冒瀆にもなりかねない不穏当な用語である。
 また、「代理」であるなら、当該外国での処罰により日本の刑罰権は行使済になるから、その犯人を日本で更に処罰することはできないことになる。外国で確定裁判を受けた者を同一行為について更に日本で処罰することを許容する日本刑法5条と矛盾する。
 このように、「代理処罰」という言葉は、制度の内容と甚だしく齟齬している。法を学んでいる者が使ってはいけない。「代理」という言葉を鵜呑みにすると、短答試験で誤答に陥る危険もある。
 更に言えば、この誤謬は、刑罰を被害者のための制度だと考える誤解に起因すると推測できる。日本国内で犯された罪の被害者は、日本国民であることが多い。それ故に、当該事件に対する外国での処罰は日本国民あるいは日本のために行われるものだ、という錯覚が生じ、「代理」という表現になる。この点でも、極めて不適切な言葉である。
 誰がこんなおかしな言葉を発明したのか、冒頭設例と逆に日本国民の国外犯に対する日本での処罰にも同じ言葉を使うのか、駄文筆者は知らないが、いずれにしても直ちに止めて頂きたい誤謬である。