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裁判と真実(1)


愛知学院大学教養部教授 梅田 豊
 「裁判」というものに対して、一般の人が抱いているイメージは次のようなものではないでしょうか。裁判では、法廷に証拠が提出され、証人の証言に対して鋭い反対尋問が行われ、証人の嘘は暴露されて、真実(真相)が明らかにされていく。その結果、最終的には真実に基づく公正な判断がなされ、判決が言い渡される。それはまさしく正義の実現であり、裁判とは、そのような正義を実現する場である。大体、こういうイメージでしょうか。そして、実際にニュースなどで、被害者の遺族などの「真実を明らかにして欲しい、と思って訴訟を提起しました。」という言葉が報道されたりします。しかし、現実の裁判では、必ずしも常に真実(真相)が追究される訳ではなく、時として、真実が無視される場合もあるのです。
 ここで、いわゆる「大岡裁き」を例にして、すこし考えてみましょう。ご存知の人も多いかと思いますが、テレビドラマでも有名な大岡越前は江戸時代の名奉行として様々な名裁き(名裁判)を行ったとされており、その中の一つの裁判物語として次のようなものがあります。
 ある所に子供がいました。子供の母親は普通1人ですが、なぜか自分がその子の母親だと名のる女性が2人いたのです。お互いに「私こそがこの子の母親だ」と主張し、頑として引きません。2人の争いは収まらず、大岡越前の奉行所で決着をつけることになりました。大岡越前は、2人に次のように言いました。「その子の左右の腕をそれぞれ1本ずつ持ち、それを引っ張り合いなさい。勝った方を母親と認めよう。」と。その言葉に従い、2人の母親は子供を力任せに引っ張り合いました。当然、引っ張られた子供はたまったものではありません。思わず「痛い!痛い!」と泣き叫びます。すると、その声を聞いて哀れに思ったのか、片方の母親が手を離してしまいます。引っ張りきった方の母親は喜んで子供を連れて行こうとします。しかし大岡越前は、「ちょっとまて、その子は手を離したこちらの母親のものだ」と言います。引っ張りきった方の母親はもちろん納得できません。「引っ張り合いに勝った方を母親と認める、と言ったじゃないですか。」と食い下がりました。しかし大岡越前は、「私は、引き寄せた方が勝ち、などとは言っていない。それに、本当の親なら、子が痛いと叫んでいる行為をどうして続けられようか。」と言ったのです。大岡越前は、母の持つ愛情をしっかり見切ったのでした。これにて一件落着。
 これが、「大岡裁き」と言われる名裁判の物語というわけですが、これが名裁判であるためには、手を離した方が本当の母親であり、それが真実であるという前提があってこそ成り立つ話ですね。万一、引っ張りきった方が実は本当の母親だったとしたら、名裁判どころかとんでもない誤判ということになります。つまり、「大岡裁き」のような物語の場合は、正義(そしてその前提となる真実)が何かは、あらかじめ分かっているわけです(物語だからこそ、そういう設定で話が作れるわけですね。)。しかし、現実の裁判ではそうは行きません。この例で、自分の子だと主張する2人の女性の主張のうち、どっちが真実なのかは、裁判官には事前には分からないのです。場合によっては、2人とも嘘をついている、ということもあり得るのです。しかし、争いがある以上、それを解決しなければなりません。争い(訴訟)に決着を付けなければならないわけです。では、どうすれば良いでしょうか。(以下次回)
(AGULS第45号(2021/4/25)掲載)