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裁判と真実(2)


愛知学院大学教養部教授 梅田 豊
 近現代の裁判においては、訴訟の決着を付ける根拠を「証拠」に求めます。前回の「大岡裁き」の例でいえば、争いとなっている子供の両腕を引っ張らせるなどという乱暴なやり方ではなく、それぞれが「自分の子である」と主張する根拠を証拠として提出させるのです。その証拠に照らして、より説得力のある主張をしていると考えられる側を勝たせる、というのが基本です。
 一般的には、裁判なんて、借りたお金は返さなきゃいけないんだから「返しなさい」と言えば良い、他人の物を壊したら弁償しなきゃいけないんだから「弁償しなさい」と言えば良い、商品を買ったら代金を払わなければならないんだから「支払いなさい」と言えばよい、それだけのことじゃないか、と思われるかもしれませんね。つまり、正しい方の主張を認めて、その主張通りの裁判をすれば良い、というわけですが、どちらが本当に正しいのか(つまり正義=真実の主張をしているのか)は分からない、というのが実際の裁判の現実です。
そして、裁判所は、どちらの言い分が正しいのかを、自分から証拠を探して調査するというようなことは、基本的にしません。裁判所がすることは、争っている両当事者(「原告」と「被告」。裁判を提起した側を原告、提起された側を被告と呼びます。)に対して、自分の主張を認めてほしければ、それを立証する「証拠」を出しなさい、と言うだけです(実際には、それも言いませんが)。そして、証拠に基づきより説得力のある立証をした側の主張を認める(これを「証拠の優越」と言います)だけなのです。
 裁判所に訴え出れば、裁判所が自ら積極的に調査し証拠を探し出して、真実を明らかにしてくれるのではないか、そのために裁判所はあるのではないか、と思っている人がいるかもしれませんが、裁判所が主体的に調査し証拠を探すようなことはありません。
 それは一つには、この世に究極的な客観的・絶対的真実を解明し認識できる人間はいないからです(裁判所も同様です)。そのような客観的真実は解明・認識できないという前提で、しかし当事者の争いに決着を付けなければならない以上、それぞれの当事者に自分の主張を正当化する証拠を提出させ、より説得力のある主張をした方を勝たせるしかない、ということです。
 もう一つには、それと関連しますが、裁判所の中立・公平性の確保という要請があります。人間が何かを調べるという場合、その調査ないし証拠収集はその前提として一定の仮説を立てることが必要です(その事実があったなら、こういう証拠があるはずではないか、ということです)。仮説を立てること自体が一定の結論を先取りしていますので、それをやり出すと、両当事者に対して中立・公平な判断者という立場を逸脱する危険性があります。ですので、裁判所が中立・公平な立場を堅持するためにも、証拠の収集も提出も、基本的には当事者に任されているのです(当事者が自ら証拠を確保することが困難な事情がある場合に「証拠保全手続」という裁判官の関与する手続がありますが、それはあくまでも例外的なもので、基本的には当事者の請求を前提にしています。)。
 以上、現実の裁判において重視されるのは、「真実そのもの」ではなく、「真実らしさ」または「手続的公正」とでも言うべきものなのです。特に、民事裁判における真実の取扱い方はそのようなものであり、これを「形式的真実主義」と呼んでいます。
(AGULS第46号(2021/5/25)掲載 )